アイノアカシ
君を責め苛む悪夢から、君を逃した。
水に足を取られてもがく小さな羽虫のような、
醜悪で、健気で、無力で、美しい君。
はじまりは、白兎の夢魔への依頼だったのだ。
「アリスを帰してしまったんだな・・・?」
「この世界の何者も彼女の意思に反して
彼女を動かすことは出来ません」
ナイトメアは呆けている白兎の頬を強くつねった。
「目覚めているか? ペーター・ホワイト」
「愚問は止してください。
出不精の貴方のためにわざわざ貴方の領土まで
赴いて差し上げたのですから」
不機嫌さを隠そうともしない白兎に、ナイトメアは苦笑した。
「私も、彼女と会えなくなって寂しいよ。
彼女がいると、楽しかった」
「二度と会えなくなる訳じゃありません・・・」
アリスは決して忘れないだろう。
姉を。 姉と過ごした時間を。
日曜の午後を。
そして、ここにいたことも――。
永遠に、抱きつづける。 心の奥底で深く。
「彼女が一生涯、僕に囚われたままで、
生き続けるのだとしたら」
白兎は、時計を見た。
「彼女は、これから先も、《日曜の午後》の他には
誰も容れないままで、生きるのかもしれない、と考えました。
そうしたら、居ても立ってもいられなくて、
彼女を僕の目の届くところに連れてきた。
けれど、今は――」
「彼女をつなぎとめておきたかったのか?」
少し首を傾げて、ナイトメアは問うた。
「さあ・・・、分かりません。
けれど、僕は彼女を愛しているから、
彼女の幸福を最優先します」
「ふ・・・はははっ、 ずいぶん強がるんだな。
らしくもなく殊勝じゃないか」
「愛はウサギを強くも弱くもするんですよ」
アリスは、夢を嫌いだと言った。
現実こそが好ましいと。
それは決して嘘ではなかったろうが、
きっと真実でもないのだ。
彼女の望んだ不変を選ばずに、帰ったのだとしても。
「貴方の助力には感謝していますよ、ナイトメア」
「力が及ばなかったようだが。
彼女は私たちの正体に気が付いて、夢から醒めてしまった」
「残念ですが、それはそれで構わない。
アリスと僕との絆は永遠に絶たれない」
硝子の小瓶を、なくさずにしまいこんだまま、
アリスは大人になるだろう。
恋をするかもしれない、
家族が出来るかもしれない。
いつかは、癒される日が来ないとは限らない。
それこそが、生きる者の特権。
「アリスはきっと、時々は
あの小瓶を取り出して眺める。
日曜の午後が来る度に、僕との逢瀬を繰り返す度に、
《僕ら》を、僕を想ってくれる筈です」
「それで、十分だというのか?」
「何とかして自分の心に折り合いを付けたいだけなんですけどね」
「彼女は私に言ったよ、白兎」
哀しそうに笑う彼女の姿と声が、瞬時に蘇る。
引き金を引く直前に、彼女は確かに笑っていた。
『貴方たちを選ばない私の方が、貴方たちにとっては
好ましいのではないかしら』
もがき苦しむ君の姿をずっと見ていた。
異質な者として。
血を流し続ける君の心臓の鼓動を、
間近で聞きたかった。
『私は生きる。 生きて生きて死ぬから、
そのときは、もう一度迎えに来てくれる?』
『白兎には、言付けて置こう』
『そのときまで、待っていて、と彼に伝えてね』
「君に、自分を待つように言っていたよ。
もう一度、君に会いたいのだそうだ」
死は時間からの解放を意味するけれど――。
生きている間は二度とここを望まないという
意思表明でもあったのだろう。
「それは良いですね。待つのには慣れている。
そのときまでは、ここでヒマを潰す他なさそうだ」
「そうだな・・・」
『大丈夫よ、ナイトメア。
私は貴方たちを味方にしているのだから』
例え、アリスの記憶の底に沈むのだとしても、
アリスの微笑を自分は忘れることは無いのだと
ナイトメアは知っている。
『優しくて残酷な貴方たちを愛しているわ』
「私も、愛を知って弱くなって、強くなった気がするな」
「何ですか、気障ったらしい」
「・・・って、先に君が言ったんじゃないか」
「ウサギは良いんですよ」
「い、意味が分からん・・・」
他愛ないやりとりが虚ろな空間にこだまする。
時をかけて、あらゆる想いは風化していく。
彼女の哀しみは結晶のように、それを免れたのだ。
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