アルト

TOP



「何て顔」

「…え…」

「誰かに、いじめられたの?」

少女は無言で首を振る。
うつむき、夕陽の朱に染めあげられるように、
ひとりでうずくまっている。小さな公園の、砂場と鉄棒の間に。

「仕返ししてやろうか?」

少女は黙っている。
みるみるうちにその目に涙が溜まり、
乾いた砂に数滴落ちた。
少女は声を殺していたから、公園はいたって静かだった。

少女は、泣いている。

「寒いの?」

「おなかすいた?」

首を振り涙をこぼし続ける少女は、男に手を伸ばした。
空を掴み、力なくおろされる。

「何を泣いているの」

少女は耳に手を当てて声を遮ろうとする。
昼と夜の狭間に落ち込まないよう。

「泣かないんだよ」

声は少女を脅かす。

「良い子だから、泣かない…」

「嘘吐き」

一言、少女は呟いた。

「嘘吐き…」

男は微笑む。

「約束、したのに」

少女は泣いている。

「ずっと一緒にいるって言った」

男の影は、なかった。



「嘘吐き、…お兄ちゃん」




少女は小さな手を延ばしたが、何も掴めなかった。
幻が少女を抱き、慰めようとしたが、かなわなかった。




私は昔からゴーストが見える。
兄の死以前はまだましだったが、
6つ離れた兄の死以来幽霊の輪郭は次第にはっきりしていった。
気味悪がられるのは目に見えていたから誰にも言わなかった。

ゴーストの存在は無害だ。私には見えるだけだった。
それなら、生者も死者も変わらない。
見えるだけだ。
手を伸ばし掴む努力をもはやしない。
私もまた、ゴーストの仲間なのだ。
とうの昔に死んでしまっているのに、
生きているふりをしているだけで。
彼らもまた、生者に恋こがれているのだろう。
会いたがっているのだと思う。
彼らは私に気がついて手を伸ばすから。
私はその手を取らない。





本当は、はぐれてしまっているだけで兄がどこかにいるのだと、
私は夢見ているのだろうか。
夢を見るためにエネルギーを費やしすぎて、現実を歪めたのか。
ありふれた喪失を埋めるために?
背丈が大分伸びてしまった。
兄の年齢を越えてしまった。
永遠の少年を待つウェンディのように、待つ。…忠実に。
人混みの中に探し続けた。
もしも、もう一度出会えたなら、
私はきっと迷わずにその背中を追い掛けるだろう。
妖精の粉の効果が切れていたとしても、
窓から落ちたとしても、かまわない。


この世とあの世は混じり、その境界の上を踏みしだき歩む。
きっと誰もがそうなのだ。
私はほんの少しだけ目隠しがズレてしまったのに過ぎない。

ゴーストは笑い泣き怒りそしてただそこにいる。
私は彼らを愛し憎む。
私の内にいるあの頃のままでいつまでも泣いている女の子。
彼女を閉じ込めて、慰めとなる全ての不在を嘆く。




ずっと、風の音を聞いている。
吹き抜ける風の音を。




私を案じた母が私を医者に見せた。
対象喪失。喪の仕事。哀しみは正常な心のメカニズム。
時折声にノイズが混じる。お子様は正常に成長しています…。
成長痛のようなものなんですよ。
じきに戻りますから心配はいりません。


…じきに戻る…。
そうだ、じきに何かが戻る筈だ。
そのことばだけクリアに聞こえた。


時間の感覚が無い。
記憶が端から失われる。
昨日と今日を区別できない。
ゴーストが。ゴーストが語りかける。
私は、その手を取らないと決めているのに。





階段から落ちて入院が決まった。
足の骨にひびが入った。
怪我の治療と併せてカウンセリングが行われた。
知らない女の人が、私の母だと名乗って泣き出した。
私は親の顔を忘れたらしかった。
したり顔の医者も、気に障る。
私には友達はいない。
いつも一人でいたがったのだと言う。
ひとごとのように聞きながら、
病人に花をたむける習慣は好きになれないと漠然と考えていた。
切り離された花は生き生きと死んでいる。


その日私は兄に会った。三階の窓の外に14才の兄はいた。


兄は表情の豊かな子供で、いわゆるガキ大将だった。
親戚のおばさんは、ききわけの良い私を誉めながら
その実兄を可愛がった。私だって私よりも兄が好きだった。
一度追い掛けてはぐれて迷子になったことがある。
今と同じに。話しかけたかった。
近付こうとするのに体が動かない。体が邪魔だ。
いつでも体は邪魔だった。



兄はただそこにいた。そこにいるだけで何もしなかった。



どうして連れて行ってくれないの。
また私を置いて行くのね。甘えに似た怒り。
足を怪我したの、とても痛いのよ。
心が綻びて気持ちが勝手に溢れるの…砂みたいに。
それがまともなんだってお医者さんは言うんだ。
私はまともで安心なんだって。
時間が経てば治るんだって。もとに戻るって。


突然、帰ってきて、と願った。


どうして、ここにいなきゃならないの。
一緒に遠くに行こうよ。




兄のゴーストは私の目をその手で塞いだ。
私は目をつむった。眠りに落ちてなじんだ悪夢にしがみつく。
無数の手に追い掛けられる。ありとあらゆる手。
走って、逃げて、諦めようとした時に
誰かが私の手が握りそこから連れだしてくれた。
懐かしい感触だった。
ゴーストには触れない筈だ。

でも、それは。



目を覚ました時にはもはや兄はいなかった。
二晩もの間私は眠っていたそうだ。
何ひとつ変わらなかったが、体のぎしぎしと軋む感じが嬉しかった。


怪我が治ったら、公園に行こうと思った。
公園に行って、ブランコに乗ろう。

そこにはうつむき涙をこらえる女の子のゴーストがいるだろう。







end.




TOP


Copyright(c) 2007 all rights reserved.