青い月

モクジ
「月森がウィーンに留学するんだって?」

土浦が日野を呼び出して問いただしたのは初秋。
文化祭を控えた休日だった。
コンサートの練習を終えた後で、
喫茶店で二人向かい合っていると、
周囲の目にはどのように映るだろうとふと思う。
以前から噂が流れていたが、
妥当な進路ではあった。
いや、噂の真偽など問題ではない。
日野の常と変わらぬ態度こそが気がかりだった。

「うん、本人から聞いたよ」

「何で、普通にしているんだ?」

日野と月森は誰の目にも特別な関係だった。
動揺している筈なのに日野は穏やかだった。
・・・少なくとも、穏やかに見えた。

「月森君は、音楽で生きていたいと
決めているんだよ。
私には止める権利もないし、
止める理由もないし、
何よりも・・・止められないよ」

「物分りが良すぎるんじゃないか?」

土浦は苛苛とグラスを弾く。
ゴシップに興味は持たない方だが、
日野と月森はそれぞれ土浦にとって特別な存在だった。
音楽に真摯に向き合える点で、
月森は尊敬すべきライバルと言えた。
決して口にはしないだろうが。
そして日野はそれ以上の存在だった。
ライバルである以上に、
恋愛の対象である以上に、
もっと特別な。
分類しがたい関係だった。
日野が月森に惹かれていると知ったときに味わったのは、
嫉妬ではなく喪失感だった。

「私は、止めるべき?」

日野は静かに言う。

「寂しがる癖に、強がるなよ。
少しくらいゴネて困らせてもバチは当たらないと思うがな」

「強がり、かな」

日野の注文した季節のケーキは手付かずだった。
土浦はブラックのコーヒーを飲む。
舌に広がる苦味。

月森は、日野と出会って変わった。
当たりが柔らかくなって、
演奏にも深みが増した。
分かりやすいヤツだと言ったら、
君も人のことは言えないだろう、と返された。
土浦も影響を受けたのは自明だった。
二人の違いは、
日野が月森を選んだことだ。
それなのに、日野を手放してしまうことが許せない。

「自分でも分からない。
ただ、月森君が留学の話をしてくれたとき、
寂しい以上に嬉しくなったんだ。
自分の好きなことをするのは、怖いことだよ」

才能の残酷さや、自分自身の築き上げた壁と
四六時中向き合わなくてはならない。
音楽に限らない。
才能に恵まれた人間は、
それと格闘する義務を負う。
月森もそのひとりだった。

「月森君は、変わらないんだなって。
私を置き去りにする月森君を好きなら、
もう仕方が無いじゃない?」

「・・・強がりにしか聞こえないんだが」

「・・・やっぱり」


思い出すのは、夏。
出会ったばかりの頃から、ずっと――。


月森といるときの日野が好きだった。
特別な絆に憧れた。
日野は、誰に対しても同等にふるまったが、
日野を誰よりも輝かせるのは月森だったのだ。
嫉妬をしなかったと言えば嘘になるけれど、
土浦はそれでも良いと思えた。
仕方が無い、と。


―― ああ、それなら、分からないでもないか。


「まあ、良いさ。悪かったな、
余計な世話を焼いて」

「ううん、ありがとう」

「これは、お前が気になってた曲のテープだ。
頼まれてたヤツ」

土浦は無造作にテープを渡した。

「オルゴールの曲?」

「そう、『エリーゼのために』。
良いCDが見当たらなくて、
結局俺が弾いたのを録音した。」

「それはますます嬉しいな。
私も、ピアノを習っていたら、
弾けるようになっていたかな」

「練習曲としてもメジャーだし、
弾けるヤツは結構いるぜ?」

「『トルコ行進曲』も練習曲なんだってね。
柚木先輩が言ってた」

「あのひと、ピアノも相当弾けるらしいな」

日野は不意に俯いた。

「おい、日野?」

「・・・ごめん、少しだけ。
待ってもらって良い?」

テーブルの上に落ちる水滴を、
見ない振りをした。

「・・・ああ」

小学生の頃に、もっと深く知り合っていたら、
どうなっていただろう。
記憶の中の小さな手が、懸命に拍手する。
その子に向けて笑ったかすら、思い出せない。
最初の聞き手だった。
日野に会うたびに人生が変わる。
土浦は思う。
―― 俺はいつまでも、その思い出に囚われて生きるだろう。
時折思い出して手の上に乗せて
眺めずにはいられないに違いない。
オルゴールを再生するように。
永遠に色あせることなく蘇る。

月森にも立ち入れない日野との絆が、確かにある。

誰かのために弾く曲。
他の誰でもない特別なひとのために。
愛するひとのために。

土浦は窓の外を見る。
秋に特有の高く晴れた空が広がっている。

「良い天気、だね」

かすれた声で呟く日野に、土浦は答えない。
いつまでも、沈黙を共有していたいと願った。












モクジ
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