モクジ

● You don't bring me Flowers  ●




「まだ、熱いかな」

瞬君は、忙しさが祟ってか、時々酷い熱を出す。
体が弱い、ということはなさそうなので、
オーバーワークなのではないかと気が気でない。
私は相変わらず聖帝高等部で教師を続けているが、
瞬君は私にとって特別な教え子だった。
教師として、慕われているのは知っていたが、
プライベートに踏み込みすぎていた自覚がある私にとって、
卒業後の今は少し難しい。
距離感が、難しいのだ。
ふとした折に惑う。
私は今とても危険な綱渡りをしているのではないのかと。

それでも、瞬君が体を壊して倒れたと聞けば、
必ず駆けつけることにしている。
仕事の無理を押しても。

昔懐かしい氷枕なんてシロモノは、
瞬君の部屋にはない。
熱冷まし用のシートは買っていたが、
結局氷水を洗面器に入れて、
固く絞ったタオルを使うことにした。
乾いたタオルで汗を拭う。

「苦しかったら、話さなくても良いからね」

赤く染められた長い髪が額にかかっている。

消化に良いものを作って、
食べさせなくては薬も飲めない。
作る暇を惜しんで、レトルトを買った。
せめて、と卵を落してふりかけをかける。
冷めるまで少し待っていると、
瞬君が目を覚ました。

「・・・先生、仕事は・・・?」

「心配しなくても、大丈夫。
明日は、お休みもらったから」

呼吸が乱れている。

「ポカリ、飲みなさい。
汗、たくさんかいたほうがいいわ」

冷やしたタオルで、咽喉元を拭いながら、額の熱を測る。

「先生の手、凄く気持ちいい・・・。
冷たくて・・・、そうしていてくれないか」

「ずっと、こうしてたら私の手だって温まるわ。
瞬君が熱いのよ」

話さずとも良い、と言ったくせに。
擦れた声に酷く安心する。
心配ばかりかけて、と治ったら一言言わなくては。

「どうしてこんなに無理するの。
体調管理もプロの仕事、って言ってたのは
どこの誰なの・・・?」

「ふふ・・・悪い・・・。
何だっけ、それ・・・アレだろ、
エンドルフィンの法則・・・」

「もしかすると、エントロピーの法則?
もう余計な知恵を絞らなくて良いから」

「だって、なんか、懐かしくてさ。
少し前まで、ずっと先生がいて・・・
当たり前みたいに傍にいて・・・
卒業したら、どうなるんだろうって、
不安になったりして、
でも、先生は変わらなかった・・・」

少しずつ、気力が回復しているのだろうか。
話をするには苦し気な様子が気にかかるものの、
私は黙って話を聞いていた。

「覚えているか? 先生・・・、
アンタは俺を助けに来るって言ったんだ。
いつまでも、俺はアンタの生徒だって・・・」

「そうね。 ほら、助けに来たでしょ」

悪戯っぽく笑ってみせた。
瞬君の母親は、美しい女性だった。
母性愛喪失、育児放棄。
ことばは、ことばでしかないのだ。
生徒の情報を集めた資料には、
前任の教師の殴り書きがあった。
私は、瞬君のお母さんのことは分からないし、
彼女を裁くような気持ちになってはいけない、と思った。
ただ、瞬君の抱えている底知れない空漠感が、
哀しくて仕方なかった。
私をうちのめした無力感。

瞬君は、目を瞑って、額に当てた私の手を取った。

「俺は、嬉しかった。
だけど・・・苦しかった。
アンタは・・・先生は、
俺だけのものじゃないんだって・・・
翼や、一や、ゴロウや・・・
他の誰でも、アンタは優しくするんだなって」

「瞬君」

「・・・冷たいよ・・・」

熱い舌が。
指と指の間に、からまる。
執拗に嘗められ、かまれる。
ぬるぬるとした、這い回る感触。

「・・・っ、・・・ん、」

息を詰めて、やりすごそうとする。

「ごめん、先生。
わかってる。 俺はどうかしてる。
でも・・・俺は、本当は独り占めしたかった」

「し、しゅんく・・・」

熱の塊。
クールで、ドライだと形容された瞬君の本質を、
私はきっと知っていた。
いつか、この熱の塊を持て余すと。

「先生、苦しい。
薬、飲ませてくれ」

とっくの昔に逸脱していた領域、
目を背けて、知らないふりをして、
でもずっとそれはそこにあった。
「・・・甘えるんじゃないわ」

「俺が何故無茶をすると思う?
俺が無茶をすれば、体を壊せば、
先生が来てくれるからだ」

搾り出すように、瞬君は言う。

「俺以上に気にかける誰かが出来たら、
来てくれなくなるかもしれない!
来てくれるうちは、まだ先生は、
俺を思ってくれてる、って・・・。
確かめないといられない。
風邪なんてどうってことはない。
俺にとっては、もっと性質の悪い病気の方を
何とかして欲しい」

医者には治せないよ、
アンタじゃなきゃ治せない。
瞬君は卒業してからも、
私を先生と呼ぶ。
卒業してからは、・・・かもしれなかった。
アンタという呼び方は、
生徒の頃のものだった。

「そのために、自分の身体をそんなふうに扱ったの?」

「ああ」

私は、瞬君の頬を軽く叩いた。

「病人じゃなかったら
全力で打ってたわ。
なんてことをするのよ、
本当に馬鹿ね」

「・・・それだけ、か?」

「おかゆ、食べなさい。
話はそれからです」

瞬君は、言われるがまま大人しくおかゆを口にした。
やっとのことで全て食べ終えるのを見届けて、
錠剤を瞬君の唇に押し入れた。
ミネラルウォーターを口に含み、
薬を咽喉の奥に流しいれる。
驚きに目を見開く瞬君の整った顔が近い。
上手くはいかず、布団やパジャマにこぼれた。

「せ、んせ・・・?」

「馬鹿! 風邪をこじらせて死ぬひとだっているの、
二度と同じような真似をしたら許さないわよ、まったく・・・」

「・・・すまん」

「何で言わなかったのか、とは言わないわ。
私も、言えなかったことはあるもの」

心地いい、関係。
ずっと、浸かっていたくて。
やっと得た信頼を壊すのが忍びなくて。


「でも、私の身勝手が、君を苦しめていたのは、私のせいよ。
・・・ごめんなさい。
私も、君が好きです。 七瀬瞬君」

「先生・・・!?」

「君は、裏切られて傷ついていたから、
私が君に特別な好意を持っていると、
君に知られたら。
君が今度こそ誰も信じられなくなるんじゃないかって・・・」

「何だよ、それ・・・」

「だって、下心があるように思うかも、って。
でも、瞬君。
私にとって、君は大事な生徒でもあるし、
・・・それ以上に大切なの。
自分をちゃんといたわって。
今度からは、何もなくても、
一緒に過ごそう」

教師と生徒じゃなくても。
恋人のように、友人のように、
――家族のように、
何もなくても、
一緒に過ごそう。

「熱が見せる幻みたいだ」

「大丈夫。 今夜はここに泊まるから。
目が覚めても、傍にいるわ。
明日まで一緒にいる。
明日も、その先も、瞬君が望むなら」

「先生、・・・俺を好きなのか?」

語りかける声の寄る辺のなさが、とても切ない。

「好きよ。 凄く大切だわ、・・・誰よりも」

「・・・、俺は寝る・・・。
朝が来るのが楽しみなんて、久しぶりだ」

言い残して、瞬君はあっさりと眠りにつく。
安らかな寝顔だ。


いつも張り詰めていた瞬君の横顔。
今は、くつろいで、少し幼さを残している。

この気持ちは恋でないかもしれないが、
瞬君を思うと、胸が痛む。
切なくて、たまらなくなる。
名状しがたい想いを抱えて、夜明けを待つ。


「愛しているわ、瞬君」


やはり、その名が一番しっくりくるのだろう。




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