グリーンスリーヴス
「おはよう。 早速聞いてみたよ、加地君」
律儀な君は、借りたものはすぐに返す。
隣の席に、君がいる不思議を毎日噛み締めている。
君が僕の傍にいる幸福。
「歌も良かった。
透明感があって、綺麗な声で!
ライナーノートに原詩と対訳があったから、
自分でも訳してみたよ」
君の話を、僕は聞いているようで聞いていない。
音楽に耳を傾けるように、
ただ、聞き入っている。
話の内容など、たいして問題ではないのだ。
君が生きて、動いて、
何かを話している。 僕に向けて。
その事実に圧倒される。
「訳はどうだった? 気に入った?」
「想像していたよりも、切なかったな」
『グリーンスリーヴス』は
僕にかけられた呪いの歌だった。
―Lady gleensleeves―
振り返らない女をかき口説く歌だ。
信じていたものに裏切られる。
その喪失の感情。
気持ちがかき乱されるから、
好きになれない。
僕にとってはかつて音楽であり、
君ももしかするとそれなのかもしれなかった。
いつだって、手に入らないものに恋焦がれる。
まるで《月が欲しいと泣く子ども》だ。
成長していない。
どこまでも変われない。
「こんなに想われたらきっと幸せだろう、って思ったよ」
「日野さん、女の子だね。
僕は歌う男の側に思い入れてしまう」
君はきっと、望んでも叶えられない不幸と
無縁に生きてきたのだろう。
「そういえば、男のひとが女のひとに
捧げた歌なんだよねぇ。
でも、きっと性別は関係ないよ。
誰だって、好きになっても報われなくて、
理不尽な思いをしたことくらいあるんじゃないかな」
「・・・日野さん、誰かに振られたの?」
僕はほとんど逆上しそうになった。
「え!? いやいやいや。
そこまで飛躍しないでも良いじゃない」
はぐらかされる。
例えば、僕程に君を想っている人間はいない、
と言い切れるのに。
僕以外の男が君に触れることが、
何故許されるのだろう。
我ながら危険な思考だ。
理性的とは言えない。
呪われているとしか思えない。
「コンサートで、やってみるつもりなんだ。
皆にも相談してから決めるけれど」
「君の演奏を聴くのは楽しみだな」
「いつもいつもありがとう・・・。
でも、私よりもうまいひとなんてたくさんいるのに・・・。
本当に、物好き」
「いつだって、君が僕の楽しみだもの」
僕は、君に会って、
自分の中にまだ勇気が残っていることに気が付いたんだ。
才能の残酷さに打ちのめされていたとき、
僕は勝手に君に救われた。
何故だろう。
君を想うと、僕は優しくなれる気がしたんだ。
やっと、自分を許してやれる、と。
そう思えた。
思い出すメロディーは『グリーンスリーヴス』。
男は、失われた幸せを悼み続けるかもしれない。
だが ――。
ほんのひと時でも同じひとつの夢をみられたなら。
その夢に生きるのも、悪くはない。
Greensleeves was all my joy.
Greensleeves was my delight.
Greensleeves was my heart of gold.
And who but my lady greensleeves.
僕の気持ちは、時の流れの中で埋もれて、
誰に届くこともなく消えてしまうだろう。
それはそれでかまわない。
僕の想いも、僕の愛した君も、
僕だけが知れば良い。
「もう一度聴いてみるよ。
好きになれるかもしれない」
「練習に付き合ってくれると、助かるよ。
加地君は耳が良いから」
予鈴が鳴る。
会話が打ち切られる。
哀しみを帯びて甘い旋律の中に
身を沈める瞬間に思いを馳せる。
この曲は君を想わせる。
少しの痛みを伴って。
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