「ペーター・・・風船よ、ほら」
連日散歩に行く私に、
ペーターは半ば強引に同行している。
ハートの国は、確かに危険に満ちているが、
ペーターは私の護衛をするために
同行しているのではない。
「まったく・・・、ふてくされないで。
私はただ、友達と仲良く話をしたいだけなのに、
ヤキモチを焼く方がどうかしているんだわ」
「僕は、貴方がいればそれだけで十分なのに。
貴方は僕なしでも楽しくやれるなんて、
不公平だと思いますよ」
今日は、ゴーランドとお茶会の約束だ。
もしかするとボリスもいるかもしれない。
私は白兎と歩く時間を割合楽しみにしているのだが、
白兎は気がつかない。
「風船が、たくさん空に消えていくわ・・・」
青い空によく映える、真っ赤な風船。
みるみるうちに遠くなるそれらの群れを、
私は昔とても好きだった。
「珍しくもありませんね。
・・・アリスは、風船が好きなのですか」
「子どもの頃は、好きだった・・・と思うわ。
あまり、覚えていないけれど」
父と、私と、姉で。
遊園地に行った。
母はまだ生きていた筈なのに。
思い出せない。
体が丈夫ではなかったから、
家にいて帰りを待っていたのかもしれない。
妹はどうしていたのかも・・・思い出せない。
小さな頃の記憶は、何故か曖昧だった。
「昔のことは、あまり思い出せないの。
こちらに来てから・・・ずっと」
ペーターは、私に歩調を合わせてゆっくりと歩く。
それでも、疲れを知らない白兎はまったくペースを
変えないので、私の方が少し歩いてついて行く。
私は空に向かって手を伸ばした。
掴めないと知りながら、それでも高く手を伸ばす。
「ペーターは、私の姉を知っているわよね」
「・・・はあ、まあ」
「小さな頃、父と姉と私とで、遊園地に行ったわ。
私、まだ子どもだった。
それで、赤い風船を買ってもらったの。
凄く嬉しかったのに・・・うっかり、
手を放してしまった。
風船は、空へ飛んで見えなくなってしまった」
私は泣き、姉は私を慰めた。
「姉はね・・・、風船を失くして泣く私を
慰めるために、こう言ったの。
それは覚えているわ」
『泣かなくても良いのよ、アリス。
風船はね、ずっと行きたかったところに、
帰って行ったの。 だから泣かないのよ』
「プロパンガスとか、知らなかったから。
風船が浮くのが不思議で仕方なかった。
妙に納得しちゃった。
ああ・・・それは、
帰りたがっているからなんだ、って」
ピンと張り詰めた糸を手にして笑う子どもたち。
風船は、どこへ帰り着くのだろう・・・。
姉らしい詩的な言い回しだと思う。
それでも、新たに買いなおしてもらった風船が、
翌朝床の上を、ふらふらとしぼんでいるのを見たとき、
申し訳なく思ったものだった。
―― きっと、帰りたかったのに。
私が引き止めてしまった。
「そう考えると貴方は風船に似ていますよ?
うっかり手放したら、
どこかへ行ってしまうところなんか、
そっくりですし・・・」
「こら、どうせならもう少し
ロマンチックなモノに例えなさいよ」
普通なら、女性を風船に例えはしない。
「どこかへ帰りたがっているところも、
よく似ていますね・・・」
ペーターは笑って、私の手を握った。
「貴方の帰るところは、僕です。
どこにいても、誰といても、何をしていても、
それを忘れないで欲しいものですね」
「・・・言うじゃない」
あのとき、放たれた風船は、
夕焼けの赤に混じって、溶けて消えていった。
だから、私は安心したのだ。
きっと、帰りたいところへ
帰って行けたのだと信じられた。
私の手を握り締める姉の手のぬくもりが、
白兎の手のぬくもりと重なる。
ひやりとして冷たい、白兎の手。
男の人の手だ。 よく整えられたかたちの良い手。
姉の手は・・・柔らかくて華奢で、温かかった。
「帰るところがあるって・・・良いものよね」
私は目を瞑って、握る手に力を込めた。
「僕にほだされてくれました?」
「まさか、私はあっちに帰るの!
ここへ永住してたまるもんですか」
「素直じゃありませんねぇ、アリスは」
「僕がいる限り、貴方は何も恐れる必要はありません」
呪文のように効く、白兎のことば。
「・・・私は貴方が怖いわ」
手を放さないで。
私を行かせないで。
一人にしないで欲しい。
私の心からの願いなど、お見通しなのだろう。
end.
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