恋人よ、我に帰れ

モクジ


『こんなところにいたのね、ペーター。
すっと、ずっと探していたのよ』

アリス・リデルは僕の姿を認めるなり
僕にしがみついた。
見失った親を探し当てた迷い子のように、
他に縋るものを持たない強さで。
僕は彼女を安心させるように
優しく抱き返す。
触れられるのが苦になるのでないかと案じていたが、
心配は無用だった。
子どもじみたドレスも悪くはない。
変わらずによく似合う。

『大丈夫ですよ、アリス・・・』

彼女は安心して僕に身を預けた・・・。

『もう、僕を探す必要はありません』







「――って、普通こうなる筈じゃないですか!?
聞いているんですか、アリス」

「・・・ペーター。
朝っぱらからアンタの救い難い妄想なんて
聞きたくない。
しかもまた勝手に人の部屋に入り込んで、
アンタは一体何なのよ、もう!」

久しぶりの明るい時間だというのに、
この腹黒ウサギは、嫌がらせに天才を発揮しているとしか。
お茶を入れて一息つこうとしているタイミングに
いきなりあらわれたかと思えば
何事かとうとうとまくしたてている。
私も流石に最近は慣れたもので、
白兎がよく分からないスイッチが入ったときは
聞き流すようにしている。
白兎は私が全く聞いていないと気がついて、
上目遣いに私を見た。
・・・恨めしげだ。

「ほら〜っ! アリスは、つれないです・・・」

「話の脈絡が分かんないっつうのよ。
勝手に完結するなよ」

どうやら白兎は、私が白兎を歓迎するものと
決めてかかっていたらしい。
それで、私との出会いが感動的にならなかったことが
残念でならないらしいのだ。

「まさか、僕のアリスにボコボコに
殴られるだなんて思いませんでしたよ」

ふうっとため息を吐いて、

「でも、貴方からもらえるものなら例え痛みであっても
僕には嬉しいです。愛は偉大ですね・・・」

私は全身がゾワゾワした。

「どこからツッコミ入れたら良いのか見当もつかない・・・。
痛みって、それ物理的な痛みだし・・・なんか違わない?」

殴っても喜ぶとは、なかなかに良い趣味をしているが、
なるべくなら係わり合いになりたくないタイプだ。
私は兎に対する見方を新たにした。

「ひとを勝手にそういう趣味にしないでくださいよ!
相手がアリスでなければ不用意に僕に触れた時点で
死んでもらいますよ、勿論」

「・・・致命的なトラップみたいね」

「まあ、幸いそのような愚かな不届き者はいませんが」

ペーターに恋人はいないのか気になったが、
訊いた後の反応が容易く想像できたので
訊くのは差し控えておいた。

「お母さんとか、お父さんとかには
触られるんじゃないの。
家族はどうしていたのよ?」

「覚えていませんね」

私は、不用意に踏み込んでしまったことに気がついた。
いつも私の前では能天気にしている白兎だが、
もしかすると家族に良い思い出がないのかもしれない。
《家族》は私だって踏み込まれたくない領域なのだ。

「・・・ごめんなさい」

「? 何を謝るんですか?」

白兎はきょとんとしている。
確かに、謝るのも・・・でも。
と、考え込んでいると、不意に思い至った。

「って、よく考えてみたら
アンタは私に関して、
たいていのことは知ってるんじゃないの」

しかも知られたくないことばかりだ。

「当たり前じゃないですか」

「当たり前じゃない!!」

ズキズキと頭が痛む。

「でも、本当に気になるわ。
どうやって、私のいろいろなことを知ったの?」

誰にも話したことのない
私だけの気持ちを知られている屈辱。

「・・・ずっと一緒にいましたから。
分かりますよ、貴方のことなら。
僕はずっと、見ていました」

・・・何故だろう。
情熱的な告白というよりもむしろホラーのような気がする。

「私のことなら、分かる、ですって?
だったら私が貴方を嫌っていることも分かるんじゃない?」

残酷な気持ちで、
わざと傷つけるような言葉を選んだのは。
その傾けられる愛情を恐れたから。

「アリス。貴方は素直ではありませんから・・・」

白兎は全く動じない。

「貴方は自分の望みが分からない。
自分の気持ちも、まるで分かっていないんですよ。
・・・アリス」

いつものように。
笑い飛ばそうとしたのに、
私は何も言い返せなかった。

「貴方は僕への愛情を疑う。
貴方は自分を信じられない。
自分の心を信じられない。
懐疑的で、それなのに、誠実でありたいと願っている」

心臓の鼓動が速まる。
白兎は、紅い眼で私を射抜く。
歌うような声で、言葉で私を翻弄する。
・・・嫌な男だ。

「大丈夫なんですよ、アリス。
僕が貴方を愛しているのは、
貴方が僕を愛したから。
貴方の心の証が他ならぬこの僕なのです」

「・・・何を言っているのか、分からない」

心。
目に見えないモノ。
愛情も、目に見えない。
匂いも色もない。
触れることも出来ない。

証明する?
誰に? 
何のために――?

嫌だ。
来ないで。
そこから先に、入って来ないで。

白兎は私を覗き込む。

「僕だって本当は貴方に優しくしたいんですけど、
貴方が痛めつけられたいなら仕方ないじゃないですか」

「私だって、そういう趣味は持ち合わせてない」

「もう大丈夫って言ってるのに、
どうして貴方はいつまでも危ういんでしょう。
僕が貴方を守るって信じてくれないんですか」

「・・・人の話を聞きなさいよ。
せっかく大きな耳があるんだから」

私は、誰かに証明したい・・・?
何を。 私の心を。

「貴方のハートは危うくて美しい。
僕たちには持ちえない輝きがそこにあります。
そこがとても・・・僕の気に入っている」

私は、白兎の時計を見た。
正確にリズムを刻む音が、
やけに耳障りに響いた。

「それは僕のものだ。
貴方の最上の部分は、僕のものだ」

白兎は甘いことばを囁き続ける。
私はポケットに入れっぱなしになっている、
ガラスの瓶を握り締めて、
白兎を睨み付けた。











モクジ
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