モクジ

● カノン  ●

普通科の日野香穂子の奏でる音色を、俺は気に入っていた。
コンクールを除いて人前では弾きたがらない日野の音を
初めて偶然耳にしたとき、
胸に湧いた言いようの無い感情を覚えている。
砂漠で渇き果てたところに、体の隅々まで水が満ちていくような。
単なる爽快感、開放感を超えて、その音は俺に染みていった。
技術は無い。性格も容姿も平凡。しかし、気に入った。
だから、俺のささやかな秘密を打ち明けても良い、
という気まぐれが働いたのかもしれない。

「お前、どうして人前で弾かないんだ?」

屋上に二人きり。日野は大体屋上か練習室で、ひとりきりで弾く。
普通科からの参加は異例だ。音楽科の熱心な奴らは
日野の音を強く意識している。
何故自分でなく日野なのか、答えを探したがっている。

「人前で弾くよりも、ひとりで弾くほうが集中できるような気が
するから、ですね」

「自信が無いから、じゃなくて?」

「・・・う。勿論、それもありますよ」

俺がいるときは、弾かせる。
始めは嫌がっていたが、慣れてしまえばどうってことはなかった。
お前の音が好きだなんて、きっと言ってやらない。
日野は自分の音を誰かに聞かせたいとは
おそらく思っていないのだろう。
磨きぬかれた技術を誇りやかに響かせる、
どこか自意識過剰な音色と違って、
日野の音は澄み、透明だった。

「リクエストしても良いか?」

「私に弾ける曲なら」

「主よ―人の望みの喜びよ」

「先輩、好きなんですか?」

「いや。でも、お前は好きだろう?」

「よく分かりましたね」

日野は決して俺に媚びないし、彼女に想いを寄せている
コンクール参加者たちとも仲が良い。
ひとりで弾きたがる日野の秘密を俺は知らない。

いつか日野が恋をしたときに、その音色は変質し、
失われるのかもしれない。
それならばいっそ誰にも特別な好意を持たないまま、
変わらないで欲しいと願う。
とても身勝手に、俺は日野を俺のものだと思っている。
それは恋に似たかたちをしたもっと別の何かだろう。

―― ああ、本当に気持ちが良い。
俺を強烈に酔わせる旋律は、
穏やかに優しく空に溶けていく。
高く遠い空に。
人の望みのような儚さで。

日野は弾き終わると、俺の隣に腰掛けた。

「人の望みの喜び、って良いじゃないですか。
弾いていると、気持ちが治るような、不思議な感じがして
―― 好きなんです」

「人の望みの喜び、か」

俺の望みは、聞き届けられるだろうか。
日野はやがて、誰かのためだけに弾くようになるのだろうか。

「俺には、分からない」

「・・・先輩?」

「独り言だ。お前といると気が緩むから、嫌なんだ」

「先輩は、気を張りすぎるんですよ」

「分かったような口をきくなよ」

「はいはい、すみませんでした」

「次、聞かせろよ」

このあやふやなつながりは、
俺の希少な楽しみなのだが、
それを言葉にしたいとは思わない。

俺はフルートを手にすると、
やがて響きだした日野の調べに重ね合わせた。
モクジ