まわり道

モクジ






ヴァイオリンを弾くのは消耗する。
集中力が磨り減る。
コンクール参加者は一様に練習を苦にしないけれど、
やはり、流石だと思う。
練習室は誰にも気兼ねしないで気が済むまで弾けるところが良い。
少し休もうとヴァイオリンを置くと、ノックの音がした。
時計を確認すると、まだ予約していた時間帯の半ばほど。
いぶかしみながらドアへと向かうと、土浦君がいた。

「悪いな、邪魔して。 調子はどうだ?」

「う〜ん、思うように弾けない箇所があって・・・。
でも、少しずつ良くなっているよ」

「今日は部に顔を出すから、一緒に帰れない」

サッカー部は休部扱いらしいけれど、
期間中もたまに部活の様子を見に行く。
土浦君は悩んでいてもひとりで胸のうちに抱え込む。
もどかしく思っても口にはしない。
土浦君は、そういうひとだ。
自分を頼らせても他人を頼らない。

「分かった。先に帰るね」

「悪いな。でも少しの間なら、付き合ってやれるぜ?」

「敵に塩を送っても良いの?」

「たまにはかまわないさ」

私と土浦君は甘い関係にはならない。
お互いを気にかけてはいても、二人で過ごす時間が快くても。
気の置けない同性の友人であり、仲間で、ライバル。
恋愛感情を持ち込むには、貴重すぎるポジションだった。
なくしたくないものがある。
それは、暗黙の了解だった。
ずっと、一線を引かれているような気がしていた。

「何か、合わせるか?」

「ううん、リクエストしたい。
『月の光』を弾いて欲しいな」

「了解」

長い指の動きは見とれるほどに美しい。
演奏に没頭する横顔。
音の波に飲み込まれるような感覚。
私のお気に入りの旋律が、小さな部屋を満たしていく。

「・・・日野。どうした?」

演奏が唐突に中断する。
私は無意識に、土浦君に触れていた。

「・・・って、うわ・・・!
私、何してるんだろ、ご、ごめんね、土浦君」

「お前が慌ててどうするんだよ」

手を引こうとするが、私の腕を掴む土浦君の手がそれを許さなかった。

「何だろう、本当によく分からない。
演奏に聞き入っているうちに、ぼ〜っとしちゃって」

言い訳がましい。
けれど、何としても弁解したかった。

「本当に、ごめん・・・は、離して」

「嫌だって言ったらどうするんだ?」

土浦君は私よりもずっと背が高い。
見下ろす視点は新鮮で、鼓動が早くなった。
不意に手が伸びて、頬に触れられる。
火照っているのを知られたくなくて、
思わず目を瞑った私をからかうように、
先ほどまで鍵盤を滑っていた指が頬を撫でた。

「お前、鈍すぎる。
俺が気の長いほうじゃなかったら、
どうするんだ」

「・・・何、言ってるの」

「分からないのか?」

ドクドクと、体中を巡る血の流れがはやまっていくような、
足元から崩れだしていくような、心もとなさ。
誘われるままに、キスをした。

「私、土浦君が好き」

「知ってたさ、お前は分かりやすいからな」

「それなら、どうして・・・」

土浦君は、女の子としての私に用は無いのかと思っていたのに。
意識しないように意識していた私の苦労はどうなるのだろう。

「日野が、他の奴らにも懐いているのが、
面白くなかったからさ。
絶対そっちから言わせてやろう、って思ったんだ」

「意地悪だね・・・土浦君らしくない」

「なあ・・・頼るなら、俺だけにしとけよ」

私と土浦君は、甘い関係にはならないと思っていた。
臆病な私は、本当はずっと好きだったのに、
自分の気持ちに歯止めをかけようとしていた。

腕の中に、いるんだ。
強く、強く抱きしめた。
この世で一番大切だと、そう思った。

「それと、もう少し警戒心を持った方が良いんじゃないか?」

「・・・え」

もう一度、今度は土浦君の方から口付けられる。
息苦しくなるけれど、
反面満たされなかったものが流し込まれるようだった。

「お前があんまり無防備に懐くから、
他の奴らにもそうなのかと思うと苛々したぜ、本当は」

「・・・土浦君だけだよ。
苛々しなくたって、大丈夫」

「俺も、お前にだけは優しくしてやりたくなるんだ。
甘やかしたくなる。・・・好きだ」

「初めて会ったとき、密室に二人きりは体裁が悪いって、
窓を開けてくれたよね」

「よく覚えてるな」

「覚えてる。 何でかな・・・全部覚えていたいからかな。
もう、体裁が悪くても良いんだと思ったら嬉しくて死にそうだよ」

「だから、そういうことを簡単に言うなって。
体裁の悪いことをしたくなるだろうが」

「土浦君は、しないよ・・・」

土浦君は、きっとしない。
してくれたら、良いのにと
半ば本気で願った日々を忘れられはしないだろう。
ずっと、言えないままだろうけれど。

「キスだって十分に体裁が悪いんだぜ?」

「ふふ・・・そうだね」

土浦君も、少しでも私と同じように思っていたくれたなら、
どんなにか救われるだろう。
いつか、私たちの関係が今よりももっと、
成熟した日が来るなら――
訊いてみたいな、と思った。











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