私は図書室が好きだった。
蔵書はお粗末だが人気が無いところが気に入っている。
近隣に県立図書館があるため、
読書が好きな生徒は皆そちらへ押しかけた。
受験組はいわずもがなで、私にとっては
隠れ家のように居心地の良いお気に入りの場所だった。
夏休みだった。 蝉の声だけが響く。
旧校舎には空調は無いけれど、十分に涼しかった。
「水城」
その静かな時間を乱す声に、苛立つ。
「図書室では、静かにして」
「水城の他に誰もいないだろ」
笑う声の主は幼馴染の鮎川だった。
鮎川の所属する水泳部は連日練習やら試合やらで
夏休みこそ忙しい。
けれど、今日は日程の都合でミーティングだけなのだと
話していたから、驚きはしなかった。
人当たりの良い鮎川は男女問わず人気がある。
人付き合いが悪く、人見知りの激しい私とはまるで違う。
家が隣り合っているから、母親同士の仲が良い。
それだけの理由で鮎川は私にかまう。
「珍しいね、何か探しもの?」
予測済みではあるものの、私は念のために尋ねた。
「そう。 『人魚姫』」
アンデルセンの有名な童話だ。
いくら我が校の蔵書が貧弱でも、それくらいはある。
しかし男子高校生が進んで手に取りたくなるような
本ではない … 筈なのだが。
「またなの…。もう、この本はほとんど鮎川のものね」
溜息をついて、 書架の片隅の『人魚姫』を手渡す。
少なくとも月に一度、鮎川は『人魚姫』を借りる。
そしてきっちり二日後に返す。
入学以来の習慣だ。
驚くべきことに一度も破られていない。
さらに言えば、鮎川が人魚姫の物語に執着し始めたのは
もっとずっと前から…正確に言えば十四歳の夏からだった。
「まだ、探してるの?」
「そうだよ、ずっと探してる」
鮎川は子どもの頃、絵に描いたようなガキ大将で、
何よりも冒険が好きだった。
それはある暑い夏の日のこと。
家族ぐるみで訪れた、近場の海で。
親達の目を盗み、鮎川は沖まで泳ごうとして、
波に足を取られて溺れた。
私もその場にいたから、よく覚えている。
幸い監視員がすぐに駆けつけたおかげで、
何とか事なきを得たのだが。
「俺は人魚を見たんだ」
こっぴどく両親に叱られた時ですら上の空だった鮎川が、
私にだけ打ち明けた秘密がそれだった。
鮎川は私に言った。
『女の人が助けてくれた』と。
鮎川を助けた監視員は地元の大学生で、男性だった。
溺れて気を失った鮎川の見たまぼろしに違いない。
正直げんなりしながらも、真剣な表情の鮎川を
笑い飛ばすことは出来ない。
鮎川は以来《彼女》を探している。
そして、不思議と子どもっぽさが消えて、
何だか大人びてしまった。
現在は水泳部の期待のホープである鮎川は、
女の子にも人気があるのに、誰とも長続きしない。
「行方を捜すのはきっと難しいよ、《王子様》」
私は茶化して言った。
「向こうが鮎川を見つけてくれるかもしれないじゃない?」
王子様を助けた人魚姫の物語にかこつけても、
鮎川は取り合ってはくれなかった。
「もう三年も経ってるから。
俺が探した方が良い気がするんだ」
「そっか。私たちが中学校に入学したお祝いだったね。
もうそれくらいになるんだ」
鮎川は、手がかりならあると言った。
《彼女》は溺れた鮎川にずっと、話しかけてくれていたらしい。
柔らかい膝の上に乗せてくれた、と。
そして、太腿の内側に傷跡があったのだという。
鮎川は人気の無い場所を探し、そこで沖に向かって泳いだ。
その場で一部始終を目撃しているのは、
鮎川の後を追った私だけ。
あの頃から鮎川はずっと疑っている。
私が本当は《人魚姫》の正体を知っているのではないかと。
「でもね、鮎川。 覚えている?
あの場所は積み上げられたテトラポットで
死角になる穴場だった。
人はほとんどいなかった。
私が悲鳴をあげなければ、監視員さんだって
駆けつけないようなところだった」
何度も繰り返した目撃証言だ。
「そんな女の人はいなかったよ」
だから、その女の人は《人魚姫》になった。
実在しない御伽噺のヒロインに。
「確かに、女の人はいなかった。
でも、お前はいただろ。 水城」
「鮎川の人魚姫が私だっていうの?」
私は心底驚いた。
今まで一度も、鮎川は訊かなかった。
「意識が朦朧としてたし、
何でお前がごまかすのか分からなかったから、
核心が持てなかった。
でも、最近幼稚園のアルバムを見て思い出したんだ。
昔お前が俺を追いかけて、木登りしたとき、
折れた枝でケガをしただろ。
おふくろにこっぴどく叱られた。
あれは、足の内側だった」
追いかけた?
引きずり回されたの間違いだと、
言い返したい気持ちをぐっと堪える。
多分、両方の言い分が正しい。
もしかすると、小さな頃は今よりもずっと
心が通い合っていたかもしれない。
私は、鮎川に憧れていたから。
ずっと鮎川の背中を追いかけていた。
「子どもの頃のケガなんて、珍しくも無いのに」
「監視員が、俺を海から引き上げた後に、
俺が意識を取り戻した後に、
俺の頭を膝の上に乗せてキスをしたのは、
お前じゃないのか」
私は絶句して、鮎川を見た。
「何で私が鮎川にキスするの?」
「俺もそれが知りたい」
「それに、もしも人魚姫が私だとして、
どうして嘘を吐くの?」
溺れてぐったりとした鮎川を見たとき、
心臓が止まるかと思った。
私は止めたのに、鮎川は私の言うことなんて
まるで聞かなかった。
自分の声とも思えない声で叫んだ。
私は水が怖くて泳げなかった。
私を一人追き去りにする鮎川が恨めしかったけれど、
それ以上に何も出来ない自分が悔しかった。
あの日以上に忘れたい一日は無い。
「三年間想像をめぐらしてみたんだが、
俺にはお前の気持ちはよく分からないんだよな。
あのときも、お前が俺に…っていうのが
どうにもしっくり来なくて、だから
夢でも見たのかと思ってたくらいだ」
「夢を見たと思っていれば良いんだよ。
私は海が大嫌い。 水が嫌い。
お魚は好きだけど、スーパーで切り身に
なってる方が良い。
人魚姫とは、とても言えない」
あの日、私は知った。
私は確かに泳げなかったし、海が怖かったけれど、
それ以上に初潮に怯えていた。
楽しみにしてた海水浴と重なり、
落ち込む私を気遣う母。
泳げないから、と鮎川には嘘を吐いた。
自分が女なのだと分かってぞっとした。
ずっと一緒にいられると思っていたのに。
キリキリと痛むお腹のことも忘れて、
泣きながら鮎川の名前を叫んだ。
一緒に来い、と言った鮎川の手を初めて取れなかった日。
秘密を持った日。 遠ざかる始まりの日。
「なあ、お前も考えても見てくれ。
俺はどうしてこのさびれた図書室に
週に一度は通いに来るんだ。
どうしていつまでもこだわり続けると思う?
付き合う女の内股に傷跡を捜すのは何故だ?」
日に焼けた鮎川の顔をまじまじと見つめる。
「鮎川、女の人の内股なんか見て、一体何したの」
意外と手が早いのだろうか。
幼馴染の新たな一面だ。
濡れた唇に唇を寄せた日。
かすかな息に安堵したのは一瞬。
私の息が止まった。
死ぬほどドキドキして、
…哀しくなった。
もう、戻れない。
「…足、見せてくれよ」
「嫌」
「頼むからさ。 お願いだ」
「何の変哲も無い人間の足だよ。 尾鰭も鱗もなし」
「傷跡、残ってたらごめんな。
すっかり忘れてごめん」
「鮎川…今更にも程がある、」
私は本を棚に戻し、閉室の準備をした。
夏休みの貸し出し期間に、わざわざ学校まで出向く
奇特な図書委員は私一人だ。
本当はずっと鮎川を待っていたのかもしれなかった。
当たり前のように私の鞄を持つ鮎川の背中は、
子どもの頃よりもずっと広くて大きかった。
よく見知った背中なのに、改めて驚く。
成長するスピードの違いに。
歩調を私に合わせる鮎川に何故か腹が立った。
「きっと、帰りたがってる」
「え?」
「本当に人魚姫がいたら、きっと帰りたいと思ってると思う」
鮎川は笑った。
「海に?」
「…そうだよ、きっと。
人間になんかなりたくなかったかもしれない。
そうせざるを得なくさせた王子様を恨む」
戻りたい、と願い続ける。
一人ぽっちで、声をなくして、
痛む足を抱えたお姫様。
男の子と女の子になんてなりたくない私の気持ちを、
鮎川は分かってはくれないだろう。
いつだって、臆病な私を笑って連れ出してくれた。
私は人魚姫ではないけれど、それでも。
鮎川は私の王子様だった。 …今も。
「今度一緒に行こうな、あの海へ。
泳ぎを一から教えてやるよ」
鮎川は振り向いて、ポケットの中から無造作に
取り出した何かを私の手に握らせた。
それは、淡く色づいた桜貝で。
あの日に見つけたものだろうと、何となく察した。
「ただ、俺の手の届かないところへは行くな、絶対に」
まるで独り言のように呟く鮎川の背を拳で叩いた。
end.
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