モラトリアム
一撃でモンスターが死ぬ。教え子は順調に経験を積んでいる。
「政略結婚なんて、冗談じゃない」
ライルは息を切らしながら吐き捨てるアイリーンの髪を撫でる。
婚約者候補の五人は皆ギルカタールの誇る有力者たちだ。
それだけ両親の本気を感じとったらしいアイリーンが
真っ先に泣き付いたのは他でもないライルだった。
家庭教師として誰よりも信頼を寄せられている。
しかしその絶大な信頼は枷として機能した。
壊したい、と心のうちで願う。
守りたい、誰にも傷をつけさせたくないのと同じ強さで。
「少し休憩しましょうか」
ライルの指導のもと戦闘を繰り返した結果アイリーンは
それなりに強くなった。
呑み込みが早く、まれな素質を秘めた教え子。
手渡したタオルで汗を拭う姿は若く美しい女そのものだ。
「ね、ライルには誰か好きなひとはいないの?」
「私ですか? …なかなか忙しくて、
女性と会う機会も少ないですから」
適当にはぐらかしたが嘘でもない。
ライルは王室の闇を担う影の臣だった。
恐ろしく多忙だが仕事は充実していた。
「そっか。私に好きなひとがいたなら良かった」
「何故です?」
「そうしたら、お母様を説得できたかもしれない」
「貴方は北の御子息を想っていらっしゃるのかと―」
「スチュワート!? よしてよ、冗談は…
あんなヤツ大嫌いよ! 知っている癖に。私は
一生許さないの」
ライルはチリチリと理性を焦がす炎を鎮める。
アイリーンは知らないのだ。
師と仰ぐ男の本性を。
まともに恋愛をしたためしなどなかった。
嫉妬などという下種な感情とは無縁に生きてきたのに。
「一生涯想われるなんて羨ましい男だ」
「ライル先生らしくもない冗談だわ。どこが羨ましいの」
「恋の熱はやがてさめます。が、憎しみは持続する…」
今この場で犯したら。
抵抗をあしらい、思うさま体をむさぼり、
そのこころを握り潰せたなら。
ライルは暗い衝動を飼い慣らす。
殺意にも似た自分のものにしたい、という衝動。
「感情の質よりも強さが重要なんですよ」
「わからないわ」
「貴方は子供ですから」
「先生だって意外と子供っぽい癖に…」
アイリーンは突然ライルに抱きついた。
「何をしているんですか?」
「動揺するかな、って思ったの」
他の女には決して許さない、
子供じみたふるまいすら可愛く思えるのだから重症だった。
旧友は今のライルを、牙を抜かれた獣と形容したがそれは違う。
牙を隠すようになっただけだ。悪戯に獲物を脅えなせないように。
「動揺…? 貴方のような子供を相手に?」
体も心も未成熟で、どこか脆くて危うい生き物だった頃を
覚えている。
簡単に壊せる。慕われる今ならより容易い。
「酷いのね…。そこまで言う? 本当に先生は子供が嫌いよね」
にこりと笑って顔を押し付ける。
媚を感じさせるような女の甘え方ではなかった。
「私は好きよ。先生は私を置き去りにしたりしない」
「ええ…ですが、遠からず貴方の方が、
私を置いて行くかもしれませんね」
「何故…?」
「子供は大人になるからですよ」
それは刷り込みのようなものだ。
アイリーンは誰かの手を切実に必要としていた。
そのとき、たまたま傍らにいたのがライルだった。
「昔ははやく大人になりたかった。今は違う。
いつまでも先生の生徒でいたいと思うわ」
ライルはアイリーンをそっと抱き返した。
自分を含めて全てをコントロールする力があると信じていた。
けれど、眼前の少女だけは。
ただ、そこにいるだけで自分を動かすことが出来るのだ。
自分の感情を抑制するのに慣れていたライルにとって、
それは理不尽極まりない感情だった。
「私はいつまでも貴方の先生でいるなんてごめんですよ」
鍛錬場に入り浸り、婚約者候補との同行を拒む。
アイリーンにとってライルは
絶対的な庇護者と位置づけられているのかもしれない。
重くのしかかる現実からの隠れ家。
しかし、アイリーンだけが知らない事実がある。
彼女が賭けに敗れたそのときは、
誰にも遠慮はすまいとライルは決めていた。
感情の質は知らない。愛も憎悪も同じ熱を持つ。
ただ、誰よりも強く想っている。
それだけは確かだ、とライルは思い苦笑した。