行かないで、だなんて言えない。
それでも、寂しいと縋れば良かった。
気が済むまで困らせれば良かった。
「俺は、お前さんに会えて良かったと思ってる」
晴れ晴れとした笑顔を憎む。
もっと早く生まれていれば、
貴方の隣にいられただろうか。
時間の長さの問題ではないのかもしれないけれど。
「・・・だから、そんな顔をするなよ」
抱きすくめられて気が付く、
染み付いた煙草の匂いが、消えている。
―― ああ、行ってしまうんだ。
先生は、先生の意志で、行ってしまう。
「俺は必ず、お前のところへ帰るから」
映画のように約束された結末など無い。
視界がたわむ。
泣いてたまるか、と思った。
「俺を、待っていてくれ―― 香穂子」
何て勝手な男。
最後の最後で、名前を呼ぶのは、
それが最高のカードだって、知っているから。
何て狡くて、何て勝手な・・・。
私は力の限り先生の胸板を叩く。
もう感情を抑えたりしない。
子どものように泣き喚きながら、
嘘つき、嘘つき、と繰り返す。
私は貴方を待つだろう。
貴方を思い続けるだろう、
そのごほうびの、前渡しのつもりか。
「好きだよ」
涙と鼻水を上等な服に擦り付けて。
もう一度だけ、
名前を呼んでくれたら、
許してあげる、
と言った。
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