昔の人の
橘とヒトミが付き合い初めて初めての春。
橘の部屋で焼きたてのスコーンを振る舞われながら
ヒトミは不意に言った。
「橘…」
「え? 」
「あ…ううん。このジャム甘橘系だから、
古典の時間、思い出したんだ」
素材の風味を生かした甘味を抑えたママレードも、橘の手作りだった。
控えめで繊細な味に加え、天然の素材らしい素朴な香りがした。
「橘の香りがすると、懐かしいひとを思い出す…ってうた。
有名なうただよ」
「俺は知らないけど」
「橘くんは理系だから無理ないかな。国語、苦手?」
「好きでも嫌いでもない…って感じスかね」
「どんな香りかな、と思ってたんだ。
このジャム、良い匂いがするから、
きっとこんな匂いなんだろうな、って」
「ふぅん」
「優しい匂いだよね」
橘はいれたての紅茶に無造作にジャムを落としてヒトミに渡した。
「ま、気に入ってもらえたなら良かった…」
ヒトミが感傷を滲ませるのは珍しかった。
春は出会いと別れの季節だ。
「もうじき卒業だから一ノ瀬先輩にも神城先輩にも
会えなくなっちゃうね」
「…そっスね」
「せっかく仲良くなれたのに、寂しいな」
「先輩」
橘はヒトミの口の端にこびりついたジャムを指で拭った。
「え」
「俺の前で、気安く他の男の話されると嫉妬するんで、
気を付けた方が良いスよ」
「え…や、そんなつもりじゃな…」
「分かってる…でも。
だいたい何時まで名字で呼ぶんスか」
「な、名前で呼んでも良いの?」
「当たり前でしょ」
橘は少し深くキスをした。
逃げる舌をすくいとり、絡める。
「甘い」
「ジャムだから」
「先輩が甘い」
「いつもと違うよ…橘くん」
赤面しているが、実際ヒトミはまったく男慣れしていなかった。
兄と木ノ村しか身近でなかったのだから無理もない気がするが、
橘といるときも気を許しすぎていて、それが橘には悔しかった。
「いつも、手加減してるから」
あんまり油断しない方がいい、と警告する。
「はは…」
「言っとくけど…俺は先輩から離れる気はない。
いつか何を見ても何をしても俺しか思い出さなくなるまで、
側にいてもらうんで」
「…橘どころじゃなく? 」
「そう」
「なんか、死ぬ程嬉しいんですが…」
「顔、真っ赤…」
ヒトミは強く橘を抱き締めた。
「痛いんスけど」
「そりゃ鍛えてるもの」
照れ隠しにぶっきらぼうになる橘の口調にヒトミは笑う。
「橘くんの匂いだ…」
「だから、そういうの止めろって」
空は高く青くうららかな昼下がり。
花咲き誇る春でなくても、二人で。