●● はじまりのおわり ●●
「帰るぞ、香穂子」
放課後、練習室でヴァイオリンを弾き終えた私に、
柚木先輩は声をかけた。
わざわざ、足を運ばせてしまったのをすまなく思う。
先輩は忙しい。本人はスマートにこなしているけれど、
傍から眺めているだけでも分かる。
本当はとても忙しいのだ。
優雅さ。柚木先輩を形容するのにもっとも用いられるそのことば。
例え意地悪なときも、
どこかそれを失わないのは育ちの良さからかもしれない。
先輩はいつだって、優雅で上品で、余裕があるように見える。
「はい、お待たせしてすみませんでした」
慌てて片付ける。別に約束していた訳ではないのだが、
おそらく切りの良いところまで待っていてくれたのだ。
「最近、聞き分けが良すぎて気持ち悪い」
「酷い言い草ですね、私だって先輩と一緒に帰れる日は
嬉しいですから」
音楽棟をふたり並んで歩く。廊下に人気は無い。
人目を気にしないでいられるのも、嬉しい。
手にしたヴァイオリンケースの重みは今や心地よかった。
私の一部のような気がする。
魔法の力に頼りきりだった頃は、重かった。
皆を欺いて、自分をすら欺いているようで苦しかった。
「そういえば、久しぶりだな。二人で過ごせるのは」
「そうですね」
柚木先輩の前でだけは泣きたくなかった。
このひとの前でだけは弱みを見せたくない、と思っていた。
軽蔑されるのが怖かった。
それは月森くんや、他の皆に対する気持ちとはどこかが違っていた。
魔法の時間が終わり、ヴァイオリンの弦が切れたとき。
帰宅し呆然としていた私に柚木先輩から電話があった。
そっけない口調もそれなのに暖かいことばも、私を苛立たせた。
何故、このタイミングで、電話をかけて。
私に優しくしたりできるのだろう。
私は、柚木先輩、貴方にだけは。
思いはことばにならなくて、
声を振り絞って泣いた。
その優しさや強さを知っていた。
その狡さも、全てひっくるめて好きだった。
だから、せめて対等でありたかった。
それなのに。
ひたすら泣きじゃくる私に、柚木先輩は無言だった。
涙は後から後からこぼれた。子どもの頃のように。
壊れた、なくした瞬間には泣けなかったのに。
「香穂子」
静かに名前を呼ばれ、私はごめんなさい、と言った。
ごめんなさい、柚木先輩、とそれだけを繰り返した。
「お前には、何も無いかもしれない。
だけど、それを可能性って言うんじゃないのか、香穂子」
柚木先輩はことばだけで私を抱きしめてくれた。
そのとき、初めて本当に憧れた。
柚木先輩は騙されるほうが悪い、と言う。
完璧な立ち居振る舞いで、優雅なものごしで、
あらゆるひとをたぶらかして。
ああ、でももう今となってはもう手遅れなのだ。
私は、近くにいられるだけで舞い上がるほどに嬉しいのだから。
私だけが知っているという密やかな優越感を抱え込むその愚かしさ。
「柚木先輩は、意外と優しいですよね」
「寝言は止せよ、馬鹿馬鹿しい」
「傍にいてくれるじゃないですか」
私が本当に辛いとき、傍にいて欲しいときは、必ず。
私に対してだけではないのかもしれないけれど――。
「お前、今日はどうかしているんじゃないのか」
「柚木先輩――」
校門の前には送迎用の車。
お抱えの運転手なんて、冗談にしか思えなかった。
柚木先輩の背負う重荷はおそらく私と比較にならない。
それでも、助けになりたいと思う。
きっと、おこがましい。それでも。
魔法はやがて解けるから、魔法なのだと思い知った瞬間。
それを分かち合ってくれるだけで十分だった。
私は恋に落ちている。とても無様に。
魔法のように、貴方に魅了されているのだと
告白する勇気が欲しかった。
「さあ、乗れよ――どうしたんだ?」
心地よさを壊したくない。
だけど、あのとき柚木先輩にもらった力は
ちゃんと私の中に息づいているはずだから。
「柚木先輩。私は、先輩が――」
私は私の可能性を信じてくれた、
柚木先輩を信じている。
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