●● 四月は残酷極まる月 中編 ●●
恋に落ちた瞬間を覚えている。
あの日は、雨が降っていたから、
泣いているのだと気が付くのに少し時間がかかった。
霧雨で、それでも傘も差さずにいた貴方の。
スーツの肩の辺りが濡れていた。
柔らかそうな、色素の薄い長い髪が水を吸って。
通りがかったひとは、
ほとんど貴方を気にも留めていなかった。
俺は、声をかけるのも忘れてただ見とれていた。
貴方は、静かに泣いていた。
目を瞑って、頬が濡れていて、
雨に混じるその涙は、俺のために流されていた。
何故だろう。
俺には、すぐに分かった。
その涙は、俺のものだと。
そのとき、恋に落ちたんだと思う。
「一、いるのか。 返事くらいしろよ・・・」
「翼か・・・」
真壁翼が、草薙一のマンションのドアを叩いたとき。
一は、自宅療養に切り替えたところで、
巻かれた包帯が痛々しかった。
勿論、入院は本来もっと、ずっと長引く筈で、
一のたっての願いで無理を押し通したのだった。
足に巻かれた包帯には、
B6と、クラスメート。
そして、教師陣の回復祈願のメッセージが書かれている。
・・・誰の発案かは言うまでもない。
勿論、大量に書けるものではなく、
白い包帯は、直に黒の文字で埋め尽くされた。
『セ、センセ・・・何かコレ不吉な感じがする・・・』
『呪いっぽいな。嫌がらせと紙一重だ』
『おかしいな。 こんな筈じゃなかったのに・・・
カ、カラフルにすれば良かったのかしら』
真剣に案じているのがおかしかった。
『書き込みすぎなんだろ・・・』
B6だけでも良かったのではないか、と翼が言ったが。
『あら、だって。
心配してくれるひとがいると、元気が出ない?』
・・・そのとき、少しだけ、
翼は一を羨ましいと思った。
「包帯替えろよ。
めしもちゃんと食え。
自分の面倒くらい自分でみろよ」
「すまん・・・」
酷くやつれた面差しは、
ケガのせいだけではないのだろう。
翼は永田に命じて買わせた、
冷凍食品や、インスタント・レトルト食品、
ミネラルウォーターや、
身の回りの品を適当に放り投げた。
ひとりでは、どうしようもない部分を
フォローできるように、
スタッフを置いてはいる。
B6や、鳳先生を含む教師陣も、
まめに見舞いに訪れている。
彼女を除いて。
不自然に気が付かない筈が無い。
「俺さ、・・・先生に、振られたんだ。
何にも、する気がしねぇ・・・」
「告白するのは、卒業まで堪えるんじゃなかったのか?」
「我慢できなかったんだよな」
ベッドに横たわる一に手を貸して、
起き上がらせようとするが、
一はそれを拒んだ。
両腕で、顔を覆っている。
「一年前の、まだ俺が誰も信じられなかった頃・・・」
ナイフを手放せなかった頃。
「先生と、出会って間もない頃。
あちこちうろついて、
気に食わない連中をかたっぱしから
叩きのめして、憂さ晴らししていた頃にさ」
「・・・ああ」
「先生は、毎日俺を探してたよ。
その日も俺を探してたけど、
俺は正直何もかもどうだって良かった。
鬱陶しい、俺に関わるな、って。
で、雨だったからさ。
流石に、雨の日くらいは
ほっといてくれるだろ、と思って、
ふらふらしてたら」
先生は、雨にもかまわずに、俺を探してた。
たまたま見つけなかったら、
多分気が付かないままだったろう。
店の、軒先で雨宿りしていた。
そのとき、先生が泣いているのが分かって、
それが俺のために流されたもののような気がして、
たまらなくなった。
やっと声をかけられるまで、しばらくかかった。
『先生、・・・何してんの。
雨だよ。 濡れてるし』
『・・・一君・・・?』
『そうだけど』
『君を探してたんじゃないの!
もう・・・心配ばっかりかけて・・・』
全然、いつもと変わりなくて。
だから、気が付かなかったように、ふるまった。
でも、それは、本物だ、と思った。
信じても良いんだって・・・。
「好きだったんだ。 ずっと」
もう一度、人間を信じられるような気になった。
「他の誰も・・・俺を信じなくても。
俺自身が、俺を見失っても、
先生は、俺を探してくれるんだ・・・」
「一・・・、」
「我慢できなかった。
先生がいたら、何だって出来ると思ってた。
・・・だから、今凄く苦しいぜ・・・」
「いい加減にしろよ、お前」
「・・・何だよ。
みっともないって?」
「違う! 先生だって、お前を探しているときに、
不安にならなかった筈はない、と言っているんだ!
それでも、先生はお前を諦めたりしなかったんだろうが!」
「・・・あ・・・」
「・・・あの女だって、十二分にしつこいんだから、
お前が一度くらい玉砕したからって、
諦める必要は、ないんじゃないか?」
アッサリと言う翼の、悪戯っぽい笑顔に、
一は、急に視界がクリアになった気がして、
おかしさがこみ上げた。
「あっはっは・・・、そっか。
それもそうだな・・・」
諦めきれないなら、諦めなければいいのだ。
「だろ? 俺たちは先生の教え子なんだぜ
見習っても良いさ
何度でもお前の本気を見せてやれば良いんじゃないのか。
・・・信じさせてやれよ」
「・・・翼、お前。 いいやつだなぁ」
「今更気が付いたのか、この馬鹿」
「・・・いや、知ってたよ、ずっと」
ずっと、近くにいた。
楽しい思いも、たくさん味わった。
B6が。 自分の居場所が好きだと言えるのも、
先生が、いたから・・・。
「お前らがいなかったら、と思うと、
ぞっとするぜ・・・」
「それなら、起きてもう少し
まともに暮らして、気力を蓄えろ。
俺に世話を焼かせるな。
・・・連中も、心配してたぞ」
「・・・ん。 そうする」
一は、腹筋の要領で身を起こした。
住み慣れた自分の部屋が、
まるで違って見えた。
換気のために、翼が全開にした窓から、
溢れ出す春の気配混じりの大気。
初めて会ったのは、春だった。
今度は、自分の手で人生を変えてみたい、と一は思う。
その努力をする勇気を、自分は持てるのだと。
思い出すのは、過ごした日々。
呆れるような無茶に、付き合わせたものだ。
「俺、ここで、先生を押し倒したことがある」
「おいおいおい・・・信じられないことするな、お前」
「振られた直後はさ、
あのときヤっちまえば良かったと思ったね。
カラダに分からせるっていうだろ・・・?」
「・・・お前・・・」
「でも、何回やり直しても。
俺には出来ないってのも、分かってた」
自分には、決して出来ない。
「どうしたら、分かってくれるんだろうな・・・。
俺じゃ、どうしても駄目なんかなぁ」
「・・・そろそろおなかいっぱいだから、やっぱり寝てろ」
to be continued
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