真珠
君に、惹かれた。
加地は日野に一目で惚れこんだ。
その音に。 その姿に。
しかし、時折自分の恋心のようなものを疑ってみる。
果たして、そこに濁りはないのかと。
「僕は耳が良いんだ。
良い音はすぐにそれと分かる」
だからこそ深く絶望した。
才能、だなんて言葉は大嫌いだった。
努力に努力を重ねても届かないところに、
その高みにいる人間を羨むよりも先に自分を呪った。
技巧も、音色も、あざとく鼻に付く。
自己嫌悪と惨めさと。
そして、君と出会った。
「君の音がとても好きだ」
転校までする程思いつめたのも確かだった。
会いたい。
話したい。
もっと深く知りたい。
同じクラスの隣の席なんて、出来すぎている。
笑みかけると、少し驚いていた。
馴れ馴れしすぎただろうか。
如才なくふるまうのは得意だ。
新しい環境にも直に馴染める。
けれど日野の心に食い込めなくては意味が無い。
加地は日野を冷徹に観察する。
クセの強い連中を気負いなく束ね、
いつも誰かが傍にいる。
優しそうな感じがした。
どこに秘密があるのだろう。
才能の秘密。
その音の秘密。
加地は、自問してみる。
例えば、子どもの頃に綺麗な蝶を捕まえた。
綺麗で、好きで、もっとよく知りたくて、
それをバラバラにした。
蝶はもう動かない。
隣の席の日野を密やかに盗み見る。
欲しくて仕方がない。
シャーペンを走らせる手。 その指。
どうしたら、
どうしたら、生み出せるのか。
焦がれ続けた音、理想そのもののような。
子どものように、バラバラにして、
調べられたら良いとも思う。
中身を掻き出して啜りたいと。
そして驚くのだ。
果たして、これは恋といえるのだろうか。
二人きりでアンサンブルの練習をするときが好きだ。
彼女の音を独占できる。
音は空気を震わせて響くから、錯覚に過ぎない。
誰に対してもたやすく好意を持てる日野は、
己の演奏の価値にまるで頓着しない。
やがて世界は彼女を発見するだろう。
そして彼女の音は望まれるままに貪られる。
加地の夢見た未来と重なる。
「ヴァイオリニストって、
手が変わるよね。 君の、見せて欲しいな」
練習室で二人きりでいるとき、
加地は日野に指を見せるように乞うた。
怪しまれないように。 自然さを装って。
日野は躊躇わず手を差し伸べる。
動悸がするのを気取られないよう、
かしずく騎士のように押し頂いて、
加地は指にキスをした。
噛み砕いたなら、
この音を永遠に自分のものに出来るのだ。
日野は動揺して手を引っ込める。
加地は笑って、大好きな君の音を生み出す
その指に感謝をしたのだ、と言う。
嘘ではない。
嘘ではないが、しかし――。
その才能を、その音を、愛しながら。
強く惹かれながら。
心の中で欲望を傾けている相手にわびる。
セクシュアルな欲望よりも強烈に欲する。
「君の音が、好きなんだ――」
そう告げるたびに君は微笑む。
困ったように、照れくさそうに。
日野は何も分かっていないのだと加地は悟る。
分からせたい、それと同時に分からせたくなかった。
恋心、と言い切るには度し難い執着。
それを綺麗事にしたかった。
傷口に実る優しい鉱物のように。
君への心だけは綺麗に保ちたかった。
好きだと繰り返すことばが、伝わるように願う。
せめてそのことばが君の音色に相応しく優しく響くように。
君に、惹かれている。
どんなに君を愛しているか、君は知らない。
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