空に返す
練習室にいるときの月森君の集中力に私は圧倒される。
音が、溢れる。人の心を動かす力を彼は持っている。
「私は月森君の音が好きだよ」
完璧な音とひとは言うけれど、よく分からなかった。
ただ、美しいと感じた。
「そうか」
淡々として答える。誤解を受けやすいこのひとの繊細さを私は知っている。
「次は君が弾いてくれ」
「何が、聴きたい?」
「―別れの曲」
二人でいられる時間を大切にしたいと思う。
月森君の道と私の道とは、きっと重ならない。
音楽を極める夢に一途に情熱を傾けるのだろう。
コンクールのために短めに編曲していたので、
弾き終えるまでにたいしてかからなかった。
「俺も好きだ」
「私の音が?」
頷く月森君の真摯な表情が少しおかしかった。
『私が?』って言ったら、きっと驚くに違いない。
「嬉しいな。私の音もきっと、月森君がいなかったら
全然違う音だった筈。」
音は変わる。
なぜならばひとも変わるからだ。
けれど、私が今この瞬間に月森君と分かち合える音が
かけがえのないものだと私は知っている。
それで十分だとも思う。
「でも自信があるんだ。
それが月森君の音なら、
私にはきっと分かるよ」
「俺も、きっと君の音を見つけられる」
これから先離れても、とは口にしない。
「ショパンは故郷を想いながらあの曲を作ったんだって」
「ああ、知っている」
「私の故郷は多分、今ここにあるんだ。
あのね、月森君」
ヴァイオリンに触れた。木のぬくもりは優しい。
音楽だけは永遠の高みに飛翔しうる。
と、本にあったフレーズが不意に頭によぎる。
「いつか何か哀しいことや苦しいことがあったら、
私は月森君と過ごした時間を思い出すよ。
今日弾いてくれた曲の旋律も、きっと忘れない」
留学する、という噂を耳にしたのは先日。
私に言い出せなかった月森君の気持ちを、想像した。
「日野・・・」
「行ってらっしゃい」
声は震えていなかったから、おそらくうまく笑えている。
心は音に溶けて行くのだから、泣かなくても良いのだ、と思った。