水温

モクジ
若月と鷹士は飲み仲間だ。
話題は何も妹に限らない。
意外にも、鷹士は良い話し相手だった。
話題も多く、何より聞き上手。
妹という一点さえ除けばバランスは取れている。
数々の美点が重度のシスコンによってプラマイ零という
類希な人物である。

珍しく酒を片手に若月の部屋を訪れた鷹士を
若月が何も言わずに受け入れたのは、
鷹士が妙に不安定だとヒトミが心配していたからだった。
桜川ヒトミが卒業して間もない今も若月と鷹士らマンションの
住人たちは親しかった。

「妹が…恋をしているみたいなんだ」

悩み事があるというから予測済みではあったが…。
若月は溜め息をついた。

「そりゃーするだろ恋のひとつやふたつ。年頃なんだし」

「分かってる…問題は俺にも相手が分からないんだ」

「はぁ? 」

つまり、話を整理すると。
鷹士は妹に関して自分の力が及ばないことがあるのが
悔しいらしいのだ。

「相変わらず寒いわー。お前ら」

「先生は、あの子が好きなのは誰か知ってるんですか? 」



セントリーフ時代ヒトミは若月によく相談を持ちかけていた。
それすら鷹士には不快だったらしかった。

「知ってるぜ」

「…誰? 」

「俺」

鷹士は不意に押し黙る。
下手をすると殺されるかもしれない、と若月は思った。

「嘘だ。違ぇよ」

「誰なんだ? 」

「桜川が誰にも言うなってさ」

教職にも守秘義務はあるんだ、と言って煙草に火をつけると、
鷹士は苦痛に顔を歪めていた。

「あの子が。妹が…恋をするなんて」

「本人に聞けば良いんじゃねぇの」

「もしヒトミから相手の名前を聞いたら、俺は多分その男の死を願う」

鷹士は言う。

俺のものにならなくてもそれは仕方ない。
せめて誰のものにもならないで欲しい。

「馬鹿か」

若月にはこの兄妹の病的な結び付きが興味深かった。

「人類の半分は女だぜ?
不自由はしてないんだろ。わざわざ茨の道を行くなよ」

「好きで好きな訳じゃない。もうどうしようもないんだ」

静かな声に滲む諦念。

「あの子が恋をするなんて」

繰り返し呟く。

「あーあ。犯罪だけは頼むから止めてくれよ」

「俺はヒトミといつまで一緒にいられるのかな…」

若月はその独白を聞かなかったふりをして酒をついだ。
酔い潰してやる方が良いと判断した。

「もしも嘘じゃなくて、桜川の相手が俺ならどうよ。
やっぱり反対するか?」

「するさ。でも相手の問題じゃない。多分誰でも嫌なんだ」

「まぁ、仕方ないさ。諦めろ」

鷹士はテーブルに突っ伏して反応しなかった。

「寝たのか?」

「もう…目なんか…覚まさない」

そして寝息が響き出す。

「ったく…馬鹿がいるよ」

若月はヒトミと鷹士の部屋にコールし、事情を伝えた。
すぐに迎えに行く、という言葉通り、
10分もしないうちにヒトミは来た。
彼女は今マンションから近い名門女子大に合格し
通学しながら兄の仕事を手伝う。

「先生! お兄ちゃんがご迷惑をおかけしてごめんなさい」

ダイエットに成功したヒトミは確かに綺麗になっていたが、
生憎若月には生徒に手を出す趣味はなかったし、
いつまでもヒトミは大切な生徒でそれ以上でもそれ以下でもなかった。

「俺が飲ませたのもあるしな。
潰れたから今夜はここで寝かせても良いぜ」

「そういう訳には…お兄ちゃん、起きて」

そっと手で揺するが、鷹士は起きない。

「困ったなぁ、もう」

「お前に相談されなかったのが堪えたらしいな」

「だって本人になんか相談できませんよ」




ヒトミの恋の相手は鷹士だった。



先日ふらりと立ち寄って、ヒトミは若月の前で泣いた。

「先生…私好きなひとがいます」

卒業した今もヒトミは若月を先生と呼ぶ。

この世には好きになってはいけない相手がいるのだと若月は知った。

「私にはお兄ちゃんよりも大切なひとがいない」

そう言って泣くヒトミに若月はかける言葉もなく、
ただ、なだめるように側にいた。



「お兄ちゃん」

ヒトミが鷹士の髪をすいた。
上から折り重なるようにして兄を抱き締める。
若月はキッチンに移動した。

「お願いだから…起きて」

理性のたががゆるんだ今ならキスのひとつもするかもしれない。
若月にとって二人は切なすぎた。綺麗で汚い男と女。
見届けてやるのが、自分の義務だと思っている。
若月は恋の誠実を信じなかったが、
だからこそ二人の幸福な未来をみたいと少し願っていた。

湯を沸かす。
茶の用意をする。
あのふたりにしてやれることと言えば、
見ないふりをするだけ。
時々手を貸してやるだけだった。

「馬鹿なやつら」

この世には人間が余っているのに、
よりにもよって一番面倒くさい相手を選ぶなんて。
正気の沙汰じゃないが、
多分、仕方ないのだろう。

二人のいる部屋に向かう前に、
若月はもう一本だけ煙草を吸うことにした。


モクジ