虹の彼方
「あのねえ、ナイトメア。
いつまでも、拗ねないのよ。
子どもじゃあるまいし」
不承不承病院に連れ出された彼は、案の定苦痛を伴う治療を受けた。
「う。いや、私たちはいつまでも子どもで、それと同時に・・・」
以来落ち込みっぱなしなのだが、
私にしてみれば喀血するような病気を放置するリスクを
かえりみない馬鹿の言い分を聞く耳は無い。
「格好つけないでね、全く。
今時子どもだって注射くらいでガタガタ言わないわよ」
「嫌いなものは嫌いなんだ!
仕方ないだろう」
「それにしても、貴方が承知してくれて良かった。
やっぱり、ごほうびが効いたのかしら?」
悪戯っぽく言うと、ナイトメアは照れた。
老成している癖に妙に子どもっぽいこの青年は、
割合素直なのだ。
「君が・・・、君のためなら」
ナイトメアは心を読む能力がある。
おそらく、私が親しいひとの病に対して
過敏な反応を示すことにも気が付いていただろう。
「・・・自分の身体くらい、
自分で心配して欲しいわ」
ごほうびと、感謝の意を込めてキスをする。
夢の中に二人。閉鎖的で、排他的な空間は
恋人たちに似つかわしいと言えないこともない、が。
どのようにしてこの引きこもりを外に
引っ張り出そうか、と思案に暮れる日々だ。
「君が心配してくれる方が、私には嬉しいんだ」
私が病気のときは、母が。
母亡き後は姉が、面倒をみてくれた。
「心配してくれる誰かがいるって嬉しいわよね。
その気持ちは分かる。
でもねえ、ナイトメア!
物事には限度ってものがあるの」
喀血だぞ、喀血・・・。
だいたい夢が病むなんて、荒唐無稽だ。
「私のために、誰かが怒ってくれるなんて、
夢のように嬉しい・・・アリス」
「・・・貴方が夢でしょうに・・・」
彼の常に閉じた片目が好きだった。
ここに来てからずっと、ナイトメアは私を案じていたのだ。
白兎の愛し方が狂っていたように、
ナイトメアから注がれるどこか奇妙な愛情に、私は酔わされた。
純粋無比な、愛情。
姉と過ごしているときの安心感に、それはよく似ていた。
「私が、貴方以外の誰かを選んでいたら、どうしていた?」
「それはそれで祝福したと思うよ。
私の最上の望みは君がこちらに留まることだった」
「ふうん、そうなの・・・」
(焼きもちを焼かれないのも寂しいものね)
ナイトメアは笑う。
「今なら、妬くよ。
あのときは、君が私のものになるだなんて
思いもよらなかったから」
「もう少し、自惚れても良いのに」
ナイトメアを愛している。
世界の全てを秤にかけて、捨て去れる程に。
私の愛情も、十分に狂気を孕んでいるのに違いない。
「貴方といると、とてもほっとするの・・・不思議ね」
規則正しく、刻まれる時計の音。
怖くて、怖くて、不安になる筈の音も、もう嫌じゃない。
ナイトメアに寄り添うとき、その音が私を包む。
苦手だった夢に包まれて、私は幸福を感じている。
私は、変われる生きものだ。
「ナイトメア、・・・貴方を、愛しているわ」
言葉にして伝えた。
夢は死なない。 病に侵されようと、それは永遠に在り続ける。
ナイトメアは、私を安心させるために病院へ行ったのだろうか。
「私もだよ、アリス」
「私たちは、君をとても愛している」
世界の果てのような、虚ろな空間。
時間の狭間の管理者は、愛を告げる。
「ごほうび、あげる約束だったわよね?」
深めに口付けるとすぐに応えてくれた。
お楽しみの時間だ。
「アリス。私は何よりも、
君に忘れられたくなかったんだよ」
私が留まらなければ、ナイトメアを忘れていた?
信じがたい。
この風変わりな青年を記憶から締め出せるとは思えなかった。
「夢とは、そうしたものだ」
「私は、ずっと貴方といるわよ」
時間を止めて、夢の中で、
貴方だけを思って過ごす。
白兎を笑えない。
私の愛情も破滅的だ。
「責任、取ってくれるのよね? ナイトメア」
「ああ。勿論だ」
過去も未来も不要だ。今だけが全て。
愛していると呟く。その言葉ばかりが心を満たしていく。
私は自分の意思で時間を止めた。
ナイトメアが《私》を惜しみ気に病むのは筋違いというものだ。
「もしもいつか、私の心臓が止まったら、そのときは
また別のアリスを探して、助けてあげて」
愛するひとの幸福を願う。
私には、私なりの愛し方しか出来ない。
「・・・分かった」
私に忠実な彼は、きっとそうするだろう。
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