時折、月森君から送られる、
彼の演奏を録音したテープは、
今や16本になった。
私は今、大学で本格的に音楽を学ぶ身だ。
触発されると同時に、
彼との距離を思う。
東京から、ウィーンまでおよそ12時間。
私と彼は、いま隔てられている。
それは、物理的な距離だけでなくて・・・。
彼は今も目指すところに向かって、
全力で走っているのに。
私は、私以外に誰かにはなれないと分かっているから、
私のペースを守るほか無い。
それでも、焦りと不安は少しずつ私の内に広がった。
紅茶にたらしたミルクのように、
じわじわと広がり、やがて混じっていく。
どうしようもなく、会いたくなる。
メールや電話では、足りなくなる。
私と月森君は、いわゆる恋人同士ではない。
ただ、同じひとつの夢の中にいるだけだ。
それだけで、十分だと思うときもある。
例えば、臨海公園でヴァイオリンを弾くとき。
海と空とに音を解放する。
遠い空の向こうにいる、月森君にも、
私の音が届くように。
そのときは、確かに幸福を感じる。
私と彼とをつなぐ絆は、音楽だった。
彼が私に求めるものも、それだけだったから。
私の恋は孵化しなかった。
カセットテープのラベルに書き込まれた几帳面な字。
最新のものはまだ聴いていない。
ボリュームをあげて、音に浸る。
いつになく艶やかな印象の音だった。
凄みを増した音色。
曲を聞き終えて、楽譜を手に入れるために
曲名を一言一句違えずにメモする。
メールを送るときのために、
感想をノートに書いた。
そのとき、テープからカチ、という音がした。
「・・・・・・かち?」
『・・・日野・・・・・・』
月森君の、肉声だった。
『日野、・・・俺は、君に会いたい。
会って、話したいことがたくさんある』
『君を想って演奏するとき、
俺は君を近くに感じる。
今も、君のために弾いた。
俺の音は、初めて会ったときからずっと、
君のために変わり続けているようだ』
『・・・この美しく歴史ある街にいても。
君を想わない日は、無いんだ・・・』
『メールや、電話で。
俺の気持ちを伝えようとしたが、
うまく・・・言えない気がして。
このようなかたちにした。
俺と君とは、音楽によってつながっているが、
それとこれとは別だ。
俺は君に会いたい。
そして、俺が君から学んだもののひとつは、
不要な我慢をしないことだ』
『・・・君に、会いに行く』
もう一度、かちり、という音がして
再生は終わった。
呆然としていたところに、
電話が鳴る。
着信履歴は、・・・月森蓮。
「もしもし・・・月森君」
「ああ。 俺だ」
「俺だじゃないでしょ、今どこなの?」
「・・・君の家のドアの前」
「嘘でしょう?」
「本当だ。君の目で確かめると良い」
チャイムが鳴った。
慌てて、ドアを開けると、そこにいるのは
紛れも無く月森君だ。
卒業して2年。
2年ぶりに見る顔は大人びていた。
「突然押しかけて、すまない」
「・・・今、ちょうど、
月森君の声を、聴いていたところ」
「君が気がつくかどうかは賭けだったんだ。
臆病で・・・自分の気持ちを言葉にするのが苦手で」
「知ってるよ、そんなの・・・」
「明後日にはウィーンに戻らなくてはならないんだが。
君の顔がどうしても見たくなった」
「・・・うん。 私も、会いたかった」
そうか。
私も、会いに行けば良かった。
「とにかく、入って」
「・・・ああ」
「話したいこと、全部話そうか」
「いや。時間は限られている。
君を間近に見て、
会話よりも優先すべきものがあると分かった」
「え」
「・・・いや、何でもない」
end.
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