わかれみち








君は私の唯一愛したひとに似ている。



「金澤先生、こちらにいらしたんですね」

「おお、日野か」

音楽科の屋上。 昼休み。
金澤先生は仲良しの猫と戯れながら煙草を吸っていた。
まだほとんど吸っていないのに、
携帯灰皿に押し付けて火を消す。
私のために消してくれたのかもしれない。

「煙草、美味しいですか」

「うまいぞ? 味ってより、クセになるんだよな。
・・・で、どうしたよ?
俺に何か用事があるんだろ」

「用事ってほどでもないですが・・・。
今日は、ここでお昼にしようかなって」

私は先生の隣に座り、
購買で買った菓子パンとジュースを置く。

「猫ってパン食べます?」

「俺がもうエサやったからやめとけ」

「チョコレートは確か毒なんですよね、
最近知りました」

「・・・危なっかしいな、オイ」


先生も、昔はここで誰かと過ごしたのかもしれない。
こんな風に、穏やかに。

「あの、金澤先生」

「何だ?」

「この前、吉羅先生に会いました」

「ああ、最近よく顔を出すな。
学院の内輪の事情だろうが」

「たまたま会ったんじゃないんです。
音楽が、聞こえて・・・それで。
気になって、音を辿って行ったら、
そこにいました」

「ふ。 そりゃああれだろ、ファータの悪戯じゃねえか?」

「ジュ・トゥ・ヴ」

「は?」

「ヴァイオリンの音でした。
その曲が、聞こえてきました・・・」

「・・・成る程。
何だ、お前・・・吉良の話を聞くために俺を探したのか?

「・・・そうなのかな、私」

「吉羅が、気になるか?」

先生は時々、本当に真剣な表情をする。

「・・・分かりません。
ただ、あのひとは私に言ったんです」

ドライアイスのようなまなざしで。
凍えるほど冷たいのに、
触れると火傷するような。

『君は、私の唯一愛したひとに似ているよ』

「へえ、んなこと言ったのか?
ったく。生徒を口説くなんて、 教職者にあるまじきヤツだな」

「嫌われているような感じでしたけど」

「・・・口説かれたんだよ、お前は。
そういうことにしとけ」

「吉羅先生が、気になります」




先生は、猫を抱き上げた。




「あいつは、ちょっとややこしいからな。
近づくには覚悟がいるぜ?」

「・・・はい」

「なあ、日野。
お前に頼まれていた楽譜、音楽準備室の俺の机の上にあるから。
今の時間ならオケ部が練習してるから開いている筈だ。
持って行けよ」

話は、終わったということだろう。
「・・・ありがとうございます、助かりました」

私は立ち上がり、スカートをはたいてほこりを落とした。

「・・・俺は、お前さんには
哀しい目には遭って欲しくない。
お前さんだけじゃないぜ?
生徒は皆そうだ。
だが、吉羅は――」

「・・・金澤先生?」

「いや、なんでもない。
悪かったな、もう行けよ」

「はい、・・・さよなら」













日野の姿が見えなくなってから、
金澤は煙草に火をつけた。
煙を肺にくぐらせる。
愛した女に去られた、という点で、
金澤と吉羅は似ている。
金澤は音楽から遠ざかった。
自分を守るために。
吉羅は。
吉羅は音楽を見限った。

『姉は死にました』

『音楽が姉を殺した』

独特の低い声音が再生される。
優しくて、明るくて、儚いようでいながら、
強かな女だったように思う。
恐ろしく一途に音楽に身を捧げた彼女の人生が、
不幸だったとは思わない。
だが、人並みの幸せとは程遠かった

『音楽は、私からあのひとを奪った』

病室のベッドに力なく横たわる彼女の姿。
シーツからはみ出した手首は、あまりにも細く。
血管が浮いて見えた。
吉羅は目をそらさなかった。
衰弱していく姉をずっと見ていた。


日野は、似ているだろうか。
――彼女に・・・。


あの日から、吉羅は感情を蔑ろにするようになった。
金澤の煙草と同じように。
愛していたものを、手酷く扱うようになった。
好悪を悟らせる程に、日野を特別に意識しているのだとしたら。
嫌な、予感がした。
近づくな、とは言えない。
言う資格は無い。
日野は、俺たちに思い出させる。
何もかもが手に入ると思っていた、
輝かしいあのころを。
失った全てを、思い出させる。
金澤は、守りたいと思ったが、
吉羅は・・・。
金澤はため息を吐いた。


「面倒なことになりそうだな」


鳴いて頭を擦り付ける猫をそっと撫でた。
















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