わかれみち 2
「奇遇だね、日野さん」
教会に行ったのは気分を変えるためだった。
休日は、一人で練習する。
楽譜をまともに弾きこなせるようになるまで、
他のメンバーよりも時間がかかる私は、
足手まといになりたくなかった。
根を詰めすぎると、気が滅入るので、
買い物がてらに教会に寄った。
少しだけ雨が降っていたので、
天気が持ち直すまでここにいようと決めた。
静かで、落ち着く。
人気がなくて、心地良い静寂に満ちている。
コンサートのお礼を言われて、嬉しくなった。
私には、信仰はよく分からないけれど、
この場所は好きだった。
木で作られたベンチに腰掛けて、
思いに耽っていると、
思いがけない声がした。
「何故、君がここにいる?」
「吉良先生!? こんにちは。
少し、気分を変えたくて・・・」
私は、何故かこのひとに親しみを持っていた。
リリの話を聞いていたから、かもしれない。
イタリアの、ゴージャスなスーツを身にまとう吉良先生は、
とても教育者には見えなかった。
(理事長、ってことは・・・厳密には先生ではないのかも)
「濡れているな」
「・・・え、」
ぼうっとしていた私に、
先生はハンカチを手渡した。
「これで拭きなさい。
返さなくても良い」
「あ、ありがとうございます」
ハンカチは持っていたが、
ヴァイオリン・ケースを拭いてしまったのだ。
ぐっしょりと湿ってしまっていた。
天気予報では降水確率は低かったのだが、
月森君あたりに見つかったら、
さぞかし怒られることだろう。
今度から、かさを持ち歩こう、と決めた。
(吉良先生も、人間より先に楽器の心配をするひとだったっけ)
その時は、なんて酷い言い草だろう、と思ったのに。
「何をしているんだ」
「・・・え?」
完璧に糊付けされたそれで、
私の髪や服を拭うのはためらわれて、
握り締めたままでいる私の手から、
先生はハンカチを抜き取った。
そして、私の髪から水分を丁寧に拭い去る。
「さっさとしなさい。 風邪をひくだろう?」
かすかに香るフレグランスに、胸が高鳴る。
赤面した顔を見せないように俯いた。
(私は何を緊張しているんだろう・・・)
大人の、男の人なんだ、と思った。
一通り拭き終わると、ハンカチはまた手に押し込まれる。
「随分ぼんやりしているようだが?
コンサートが続いているから・・・疲れているのか?」
「いいえ。 大丈夫ですよ。
本当のところ、練習は大変ですが・・・
でも、楽しみながらやっています」
「楽しい、か。
楽しんでいられるうちが花だ」
先生は笑った。
どこか陰のある笑みだった。
「君は金澤さんのお気に入りらしいね」
「コンクールの頃からお世話になっていますから、
普通科の生徒の割りには接点があるとは思いますが・・・」
「いや、君を見ていると金澤さんの好みがよく分かるよ。
あのひとには、君のようなひとが必要なんだろう」
どこか引っかかる物言いだった。
「・・・当然の話ですが。
私の扱いは、他の生徒と変わりませんよ?」
「表面ではそうだろうな。
あのひとはあれで教師に向いている。
・・・昔は考えられなかったよ。
あのひとが、教師になるなんてね。
学生の頃、金澤さんの『女心の歌』を聴いた。
思わず、立ち上がった。
我を忘れて拍手をしたよ。
見事な声だった。
世界を舞台に活躍する片鱗を覗かせていた」
私の知らない先生の一面。
ふ、と聞こえてくるような気がした。
聴衆の喝采した類稀な美声が。
「君は知っているかな?
あの歌を。 大衆的だろう?
当時のヴェネツィアで大流行したそうだ」
「『女心の歌』。
コンサートで演奏する曲の候補にもなりました。
構成上外しましたが、
明るくて親しみやすくて、私は好きです」
「もう一度、歌って欲しいものだな。あの曲を。
私が言えば皮肉になるだろうが、
君のことばならまっすぐに届くだろう。
一度『リゴレット』の舞台に行くといい。
他にも魅力的なアリアがたくさんあるし、
やはりオペラは通しで聴いた方が良い」
「はい、きっと行ってみます」
「私といるのは緊張するか?」
「え? え、いや、そんなことは・・・」
「まあ、生徒が教師の前で緊張するのは
至極当然の反応だが、それにしても君は分かりやすい」
穴があったら、入りたい。
先ほどまでの反応も全て知られていたのだろうか。
「緊張して当たり前じゃないですか、
先生ですから」
「金澤さんの前ではリラックスしていたような気もするが。
何故、私が君に気安く接するのか、分かるかな?」
突然、顎に手をかけられて上を向かされる。
「君を見ていると、私の心が動かされるからだ」
私は、親しみを持っていながら、同時に緊張する
自分をいぶかしんでいたが、ようやく理解した。
生きたまま、解剖されているかのような。
「キスをしたいが、やめておこう」
私の唇をなぞって、先生は、笑った。
「ここは教会だからね」
席を立って、あっさりと姿を消す。
私は今度こそ、鎮まらない心臓に嫌気が差した。
次に会うときは、いつになるだろう・・・。
あのひとは、知っているだろうか。
私と、一度ここで会っているのだと。
一抱えもある白い百合の花束は、残像のように
私に焼きついている。