我はその名も知らざりき

モクジ



「ちょっとおいで、日野」




柚木先輩は以前よりもずっと楽しそうだ。
誘われるがままに車に乗り込む。
アンサンブルの練習に放課後の時間を割かれていた。
帰宅は遅くなり、時折母にとがめられた。
コンサートの説明はしているのに、心配性なのだ。
コンクールのときと違って日が落ちるのが早いせいでもある。
私は遠慮せず、送ってもらうことにした。
柚木先輩と一緒にいるのは楽しい。
はじめは緊張していたけれど、
最近は流石に慣れた。

「ありがとうございます。
外が真っ暗なので、助かりました」

「そうだな。 まあ、明後日が当日だから仕方ないか」

「私は気にしないんですが、
母が心配するので・・・」

「ふうん。 お前も少しは気にしろよ。
制服さえ着てれば何でも良いって変態もいるんだぜ?」

「怖い話ですね」

まっすぐな黒髪。
暖かそうだ、とふと思う。
重くないのだろうか。

「何で俺がわざわざお前を送るか分かる?」

「・・・話したいことでもあるんですか?」

「あたり。 で、何を話したいんだと思う?」

「・・・分かりませんよ。 ヒントは?」

「お前の悩み事についてだ。
分かりやすいんだよ、お前」

つまらなそうに吐き捨てる。
あまり機嫌が良くなさそうだった。

「柚木先輩が鋭いんですよ・・・。
私は普通です」

「はいはい、で?」

「で?・・・と、言われましても・・・」

「加地だろ、お前の悩みは」

私は頭を抱えた。
このひとは容赦が無い。

「・・・うわあ。
ほんっとにいっつもお見通しなんですね・・・」

「当たり前だろ?
お前の様子はおかしかったからな。
自称ファンなんだよな、お前の。
えらく懐かれているようだけど。
で、どうしたんだ」

「いや、その。
自分でも、よく分かっていなくて・・・。
ただ」

「ただ?」

「加地君に好きだって言われたんです」

柚木先輩は舌打ちした。
いつでも品の良い先輩にしては珍しい。

「あの、誤解しないでくださいね?
私の演奏が好きだ、って言われたんです。
特別な、そういう好きじゃなくて」

「・・・コンクールでのお前の演奏は
ちょっとした評判だったんだ。
その程度の賛辞に今更怖気づいたのか?」

「いいえ。
加地君は、私に凄く優しくしてくれるんですが、
それがちょっと・・・ 悩みのタネなんですよ」

体育の時間に、不注意でケガをしたとき。
たいしたケガではなかったから、
心配する友人を振り切ってひとりで保健室に向かおうとした。
けれど、加地君に突然抱きかかえられた。
物凄く恥ずかしかったし、それ以上に驚いた。
私はそんなにも値打ちのある人間だろうか。
お姫様のように大切に扱われる。
それが、とても困る。

「柚木先輩には分からないかもしれませんね・・・」

いつだって、ファンに囲まれて、
注がれる熱いまなざしを平然と受け流す。

「でも、加地君は、私に夢を見すぎなんだと思うんです」

日野はため息をついた。

「加地君の好きだという私は、
生身の《日野香穂子》から程遠いです」

「下らない悩みだな?
それに聞き捨てならないね」

「・・・え?」

「お前、本当のお前を好きになってほしいの、加地に」

「・・・・・・っ、先輩!」

「何だ」

「意地悪です」

「そうだよ、俺は意地悪なんだ。
忘れたか?」

にらみつけると、面白そうに笑われる。
本当に、容赦が無くて、意地悪だ。

「もう、考えなくても良いんじゃないか?
どうせなるようにしかならないんだ」

「私、そんなに分かりやすく悩んでいましたか・・・」

「加地といるとき、表情が強張っていたな。
加地も気がついていたぜ、多分」

「ど、どうしよう・・・」

「だから、もう考えるな」

運転はとても上手くて、静かだった。
車内は暖かく、時間が経つのが早く感じる。

こうやって、先輩と一緒に過ごせる時間は残り少ない。
だから、頑張りたかった。
ベストを尽したかった。
何年後か、何十年後か、
思い出すときに、
悔いの無いように。

私は何を気にしているんだろう。
加地君の何がそんなに気にかかるんだろう。
例えば、私が酷いケガをして、
ヴァイオリンを弾けなくなったら、
彼は私に何を言うのだろう。


「先輩、いつもありがとうございます」

柚木先輩は、意地悪な顔を隠しているけれど、
それでも、いつも気を遣うひとだ。
いつだって、さりげなく助けてくれる。
私と話して、気分を軽くしてくれたのも、
間違いなく柚木先輩の本当なのだと思う。

「先輩がいてくれて良かった」

「勘違いするなよ。
俺はただ、お前の頭を加地が占領しているのを
見かねただけだ」

「加地君は苦手ですか?」

「別に・・・。ただ、俺とあいつは欲しいものが似ている。
だから、時々腹立たしくなるだけだ」

柚木先輩にも、欲しいものがあるのだ。
何でも持っているように、恵まれて見えるのに。

「・・・お前には、欲しいものはあるか? 日野」

「たくさんありますよ?
手に入らなさそうなものも、
お金で買えるものも」

車窓から見える町並みは、星空のように綺麗だった。

例えば、ヴァイオリンが弾けなくなったら。
音楽から遠ざからなくてはならなかったら。
そのときに、自分を自分で支えていられるだけの強さが欲しい。

「・・・着いたな」

家の前で、車が止まる。

「先輩の欲しいものは、何ですか・・・?」

ふと思い立って尋ねてみる。

「ヒントは出しているんだぜ?
自分で考えろ」

「無理ですよ・・・私は先輩じゃないんですから」


誰も、自分以外の誰かにはなれないのだ。


「じゃあな、明日はもっとましな顔を見せてくれ」

「・・・はい、きっと」

そっとドアを閉めて、少しの間見送った。

地上に散らばる光。
天上の光。



一年後の私は、今の私をどう思っているだろう。

――加地君、あのね・・・
  私は、そんなにたいそうな
  ものじゃないんだ・・・――

自室に入り、ケースを開けて、
ヴァイオリンの表面を撫でる。


「・・・ごめんね・・・」


小さな声で、呟いた。
誰にも聞かれなくて良かったと思った。






















モクジ
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