ねがいごと チェシャ猫の場合

モクジ



よく笑う猫は、傷ばかり負う。
自分なんか、どうなったってかまわない、と言って。
自暴自棄ではない。
猫は、本当にそう信じている。

私は、怒っている。
もうずっと、怒っていたような気もするが、
私が怒ると、猫は嬉しそうにする。
猫なんて、何にも分かっていない。

ボリスの部屋で、傷の手当をしながら、
怒りをもてあましている私に、ボリスは必死で話しかける。

「アリス、ねえ、まだ怒ってるの?
そろそろ機嫌直してくれないと、
俺が耐えられそうにないんだけど・・・」

ボリスには珍しい真摯な様子ですら、腹立たしかった。

「銃撃戦をして、怪我して、
私に言われるまで手当てもしなかった。
私は、嫌だって言ったわよね。 ボリス」

「仕方ないんだって・・・。
ルールはルールだ。
それに、かすり傷だぜ?
言われるまで気がつかないくらいだ」

・・・ボリスは何にも分かっていない。

「相手は誰?」

「へ? 何の?」

「貴方を撃った相手よ。
そのひとと浮気するから」

ボリスの、わき腹。
赤い傷跡が、見えたときに、
ほとんど心臓が止まりそうになった。

「ちょ、・・・!!
アリス、そりゃないんじゃないのか!」

「・・・覚えておいて。
私は言ったことはたいていやるの。
約束を破ったら、浮気するって言ったわ!」

私の知らないどこかで、
誰かがボリスを殺していたら。
もう二度と会えない。
もう、他に誰もいらないと思ったから、
私は此処にいるのに。
ボリスは馬鹿だ。
昔勝っていた私の猫の方がずっと賢い、
飼い主をこんなに心配させたりしない。

「・・・なあ、アリス。
泣いてんの?」

心配そうに覗き込んでくる。

「・・・泣いてない。
見れば分かるでしょ。
私は、そう簡単には泣かないの」

泣けないのは、事実を受け入れられないから。
私は、きっと信じられない。
私を温めてくれるこのぬくもりが、
失われうるものだということを。

何にも、何にも、分からないんだ。

「俺が悪かった・・・、アリス」

「当たり前よ」

「だからさ、泣くなって」

「・・・だから、泣いたりしないって言ってるでしょ」

ボリスは、乱暴に唇を奪い、
それこそ猫のような仕草で頬を嘗めた。

「泣いてるよ、アリスは。
俺には分かる」

「・・・誤魔化されたりしないからね」

「浮気なんかするなよ。
それこそ、俺がどうにかなっちゃうぜ」

「望むところだわ」

「なあ、アリス。 ・・・しよう?」

「もう、この馬鹿は・・・今の話を、聞いてなかったの!」

平手打ちをしようとしたが、
あっさり手を掴まれてしまった。

「俺のためにアリスが怒ったり
泣きそうになったりしてるの見てたら、さ。
幸せな気分になった。
愛を確かめたくて」

「くたばりなさい」

「俺が本当に《そう》なったら、
アリスはきっと泣くよなぁ。
そんなの絶対ごめんだって思えるんだ。
俺は、・・・変わったな」

いつもと違って、その笑いには自嘲が混じっていた。
私の怒りをなだめるかのように、猫は私に執拗に触れる。

私も、自分のために泣いてくれる誰かが欲しかった。
本当の愛情が欲しかったのだと思う。
父や妹が私に向ける思いは、家族ゆえのものだ。
《アリス・リデル》でなくても良い。
自分がいつも真似事をしているような気がしていた。
妹の真似、姉の真似、娘の真似、友達の真似。
贋物かもしれない、と。
私はまともに誰かを愛せるのかどうか分からない、
できそこないなのだと。

(だって、私は・・・)

(あのときですら、泣けなかったのに)

自分を憐れんだりはしなかった。
ただ、全力でそこから逃げた。 闇雲に。
だから、穴に落ちたりするんだろう。

「ボリス。 貴方のせいで気分は最悪よ」

ろくなことを考えられなくなる。

「だから、心を軽くしてやるよ。
アリスはさ、知ってる?
俺の傷跡に触りたがるくせがあるんだぜ、アンタ」

知らなかった。

「アンタに触られると感じすぎて参る・・・。
だからさ、俺も、触ってやるよ。
ひとつひとつ触って、確かめて、嘗めたいな」

「私は貴方と違って我が身が可愛いの。
銃撃戦なんかしないわ、傷跡なんて、
あるとしたら予防接種の注射の跡くらいなものよ」

「・・・まあ、目に見えるところはそうだろうけど。
俺を撃ったのは、真っ黒いウサギさんだけど、
浮気なんかさせないぜ?
もう二度と、アンタを泣かせるような真似はしない」

「信じられないわ」

「ルールはどうにもならないんだ・・・。
でも、凄く気をつけるようにするから。
浮気は勘弁してくれよ? 頼むぜ」

耳元に囁かれてキス。
この距離が、心地よくなってしまうほどに、
慣らされたことが悔しい。
・・・頼まれなくても、
浮気なんてきっと出来ないのだろう。
自分は変わった、とボリスは言った。
私も、変わったのだろうか。
私は、泣くだろうか。
私の猫を失ったら――。

私はボリスの胸に顔を押し付けて背中に手を回した。

「貴方がいなくなっても私は泣かない」

「おい、アリス・・・」

「きっと泣くことも笑うことも怒ることもできない。
何も出来なくなる。 何も感じられなくなると思う。
生きているとは言えないわ、そんなの。
―― 貴方、私がそんなふうになっても良いの・・・?」

「アリス」

「謝って!」

「ごめん」

「もっとよ、」

ごめんな、とボリスは繰り返した。

これが、探していた本当の愛ってモノなのだとしたら。
狂気染みている。 
どうかしている。
―― 罪深い。

急に辺りが暗くなる。
夜の帳が、私を隠してくれるようで嬉しかった。
ボリスの深い口付けに応えて、
私は夜に相応しい秘め事に耽ることにした。







モクジ
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