絶対不可侵領域
その秘密を知る者は一人きり。
痩せて綺麗になった桜川ヒトミは今やセントリーフの伝説となった。
体重を二分の一以下に落とした見上げた根性も含めて、
皆に面白がられている。
本来あるべき整った顔立ちや、
見違えるような完璧なスタイルに惹かれ、
告白が後を立たないらしい。
しかしヒトミは全ての誘いを丁寧に断り、
今までと変わりない生活を続けている。
ひとつの例外を除いて。
「ヒトミ、一緒に帰ろ!」
「ごめんね、今日はちょっと」
「何よもう。最近付き合い悪いのね」
仲の良い友達の誘いを断り、ヒトミは華原を待つ。
それが彼女の最近の日課だった。
現在桜川ヒトミは華原雅紀の奴隷である。
華原が桜川に素顔をあらわしたのはほんの気まぐれに過ぎなかった。
が、贈り物のジルコニアのブレスレットを常に身に付けているヒトミを見ると不意に気が緩む。
ヒトミのおひとよしで甘いところは時に華原を残酷な気分にした。
側にいると傷の手当てをされるように、
自分の気持ちが治っていくのが分かる。
しかしそれとともに華原は奇妙な苛立ちをも抱え込む羽目になった。
「お前は俺の味方じゃない」
放課後の教室に二人。窓の外の喧騒は届かない。切り取られた世界。
ヒトミの腕の中で華原は呟いた。
「俺はお前を信じない」
ずっと側にいるよ、とヒトミは言った。
苛立ちが噴き溢れて、行方も定まらないまま言葉が散る。
椅子に座る華原をそっと抱き締めながら
ヒトミはただ側にいるよと繰り返した。
「ずっと側にいるから」
泣きそうな声の主が欲しい、と思う。
そして、華原は言ったのだ。
「じゃあ、桜川…俺のものになってよ」
それからヒトミは華原のものだ。
いかに無茶な要求もヒトミは拒絶しなかった。
二人の関係は秘密で、誰も知らない。
不審に思う親友たちや兄が問いただしても、
ヒトミは何も言わなかった。
「付き合ってるの?」とでも聞かれたら、
ヒトミは黙って首を振るだろう。
華原の苛立ちはやまない。
例えば、部屋に来るように言い、来る。
その従順さ。無理強いしても抗わない。
彼女は、側にいる。それを確かめても、華原は苦しかった。
欲しかったものは何だったろうと華原は考える。
自分を侵食し続ける闇。
そこから連れ出してくれる存在をどこかで待ち望んでいた。
華奢な手首を飾るブレスレット。
華原の贈ったそれをいつまでも大切にしている。
寝台の傍らで眠るヒトミの手首からそれを外した。
目じりにこびりついた涙は既に乾いている。
その寝息に聞き入りながら、
自分は誰の傍らでも安らかに眠れないのだと
ヒトミは分かっているだろうかと華原は考える。
モノに意味などありはしない。
華原は無造作にブレスレットを引きちぎり、ゴミ箱に捨てて
シャワーを浴びに行った。
細い鎖とはいえ手の平が少し破れ、水が傷口に染みる。
ヒトミが怒れば良い、と華原は思う。
部屋に戻ると、ヒトミは目を覚ましていた。既に服を着ている。
華原の傷に目をとめ、あわてて救急箱を探す。
「さっきまでなかったのに、どうしたの?」
「ヒトミ。嘗めて」
ふ、と苦笑して舌を這わせる。
そのまま口に指を押し入れると、息苦しさに咳き込む。
乱暴にかき回しながら、唾液が口の端からつたいおりるのを見ていた。
体を重ねる意味も華原は分からないでいるが、
何をしてもどこか潔癖なところも気に食わない、と思っている。
ただ、知り合って間もない頃、太っていた頃に比べて
極端に言葉が少なくなった。
変わっていく関係、自ら変質させた絆を惜しまない。
やまない苛立ちの理由も知りたくない。
耳を愛撫し、柔らかな髪を手に絡めて遊ぶ。
「ブレスレット、私どこに置いたっけ」
「さあ、俺は見なかった」
平然と嘘を吐く。気がつくと傷の手当は済んでいた。
「嘘だよ。俺が壊して捨てた。
ヒトミが大切にしているのが、苛苛したから」
「それで怪我したの」
頷くと、ヒトミは首を傾げる。
「何がしたいのか、分からない」
「怒らないかな、と思ってさ」
「怒って欲しいの? ずっと一緒にいるって約束したから、
そのくらいじゃあへこたれないよ」
強がりだと華原は見抜く。ヒトミは確かに疲れている。
「ずっと、一緒にいるよ」
傷口にキスをして祈るように目を閉じる。
同じものを自分は買いなおすだろうかと華原は自問した。