本当に、踊りたい人とは踊れないのに。
あのひとの好きな色のドレスに袖を通す私は。
とても、下手な仕方で恋をしていると思う。
足を痛めた、と咄嗟に嘘を吐いてまで、
ダンスを断り、人気の無いところにまで、
ゆっくりと歩いていった。
ウィンナ・ワルツの軽快なテンポが耳に快い。
白いドレスは、綺麗だが、
現実的には汚れが目立ってしまう。
いっそ、取り返しがつかない程に
汚れてしまえば良いのに。
音楽は遠い。
踊らない私を案じる菜美と冬海ちゃんには、
無駄な心配をかけてしまった。
あのひとのいそうな場所は。
皆目見当もつかない。
他の誰かと踊る心配だけは、しなくて済む。
ああ、でも。
昔はきっと、他の誰かの手を取った筈。
数え切れない程、魅力的な女の人のエスコートを
したのに違いない。
「・・・どうして、同じ年に生まれなかったの」
言っても仕方が無いことだと、
分かってはいても、せめて一度だけでも。
踊ってみたかった。
「おい・・・なにしてるんだ、こんなところで」
「金澤先生・・・少し、ひとに酔いました」
夢かと思った。
先生は、いつもと同じ服装だったが
疲れているように見えた。
煙草を吸い終えるまで、
私はろくに口をきかなかった。
携帯灰皿で、先生は煙草を消す。
私のプレゼントだった。
先生の生活や、日常や、そんなものに、
私の痕跡を残したいと願って贈った。
「俺は見回りの息抜きだ。
イベントってのはかったるいもんだぜ。
お前さんたちには分からんだろうが、
裏方にも感謝しろよな」
「はい」
「なあ・・・お前さん、踊らないのか?」
「踊りません」
「勿体無いな。 誘われなかったのか?」
「どうしても、気乗りしなくて」
―― 踊りたいのに。
先生とでなくては、嫌なのだ。
「これから先、お前さんが音楽家になったら、
踊るチャンスがたくさんあるぜ。
覚えといて損はないぞ」
そのときには、先生はいない。
私の傍にいない。
それなら、必要ない。
「・・・だったら、先生が教えてください」
「はあ?」
「一曲で良いんです。 お願いです」
いつかでも、かつてでもない。
今の私と、今の先生と、
二人きりで踊れたなら、
私はきっと一生忘れないから――。
「あのな、日野」
「・・・無理ですか?」
「無理っていうかさ」
「一曲だけ、踊ってくれたら。
面倒なことは言いません。
それなら・・・どうですか」
先生が望むなら、誓って何も言わない。
「そんじゃ、俺は踊らない」
「・・・え」
「お前さんの言う《面倒なこと》を、
俺はいつか、お前さんの口から聞きたいからな」
先生は、私の手を取った。
「ヴァイオリニストの指だな。
みるみるうちに上手くなった。
今じゃ、立派なもんだ」
「先生に教わったおかげです」
「おだてても何も出ないぜ?
謙遜するなよ」
「本当です!・・・私は」
私は、先生に向かって弾いていた。
誉めてくれるのが、嬉しくて、練習を重ねた。
大好きだった。
毎日、好きになる。
はじめは楽しかったのに、今は苦しい。
「俺がいなくても、お前はもうやっていける。
この指が、それを証明してる」
先生は、手を放した。
「・・・だから、今は踊らない」
「・・・今が良いのに・・・!
先生は、だって、
行ってしまうつもりでいる癖に」
私を置いて行くつもりでいる癖に。
「俺は、お前さんの思い出になるつもりはないさ。
いつかなんて、当てにならない約束を・・・
日野。 お前と約束をすれば、
俺は・・・二度と、道を見失わなくて済む気がする」
「・・・ズルイよ、先生」
「大人はズルイんだ、臆病でズルイ。
そういうもんなんだって・・・」
「私、約束しますから・・・、
そのときは、一晩中踊ってくださいね。
私の気が済むまで・・・ずっと」
そのときは、きっと白いドレスを着よう。
夜が明けるまで、ずっと。
貴方の手を取って。
疲れて、動けなくなるまで。
「・・・ああ、きっとな」
笑う先生は、どこか寂しそうに見えた。
約束の夜が来るまで、
私はきっと、誰の手も取らないのだ。
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